弟の声、兄の音

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弟の声、兄の音

 日陰が一切存在しない田んぼの真ん中を、自転車で駆け上る。今日は一学期の終業式だった。同じ高校の生徒は遊ぶ約束をしていた。その約束の中に、絹都(けんと)は存在しない。皆に見えているのは、絹都の幻影だ。  絹都の自宅は、田んぼの真ん中に建つ「パティスリー・サンドリヨン」の裏にある。パティスリー・サンドリヨンは、絹都の母の店だ。野菜や米粉をを取り入れたスイーツが話題を呼び、健康志向の客に人気がある。  今日も母は店の厨房に立っていることはわかっている。絹都は自転車をカーポートに停め、感情が起こる前に店の裏口にまわり、テンキーに数字を入力して開錠した。  今日もまた、いつも通りの生活が待っている。  絹都はロッカールームのエアコンを効かせ、汗拭きシートで念入りに汗を拭いてから、母が用意した洗濯済みのティーシャツとボトムス、スニーカー、エプロンに着替えた。 「おかえり〜」  厨房に入った絹都を向かえたのは、母の甘ったるい声だった。 「お昼ごはんが終わったら洗い物、それが終わったら銀行にお金の振込に行ってくれる〜? あの農家、銀行振込しか対応してくれないのよ〜」  母は絹都の返事を待たずに用件だけ伝える。  絹都はいつも通りに冷蔵庫から「お昼ごはん」を出し、厨房の隅で食べる。  今日の「お昼ごはん」は、母お得意の「味噌と豆腐の全粒粉スコーン」と、「人参の米粉シフォンケーキ」だ。水が飲みたいが、ここにコップはなく、勝手に水を飲むこともできない。  むせないように気をつけて「お昼ごはん」を食べていると、厨房スタッフが絹都を一瞥して鼻を鳴らした。この春に製菓学校を卒業したばかりの、母のお眼鏡にかなったイケメンだ。  絹都の母は、今年で38歳だ。21歳のときに絹都を産み、25歳でこの店を立ち上げた。若く楚々とした美人で甘ったるい声のギャップに、誰もが驚く。そして、厳しすぎる製菓への姿勢は、パティシエ見習いの多くが尊敬する。事実、絹都の母の下で修行をしてから他所で活躍する人が何人もいる。  絹都は「お昼ごはん」を食べ終え、洗い物があふれかえるシンクに立つ。 「明日から絹都くんが夏休みだから、助かるよ〜。絹都くん、学校に行かないでずっとお手伝いしてくれれば良いのに。は絹都くんを嫌いになっちゃって出てっちゃったけど、絹都くんは高校を卒業したら、お店をお手伝いしてくれるの〜」  母が嬉しそうに、客に話すのが聞こえた。  がちゃん、がちゃん、とボウルが床に落ちた。厨房スタッフが駆け寄り、ボウルを拾ってくれる。  絹都が礼を言えずにいると、母が厨房スタッフにぴしゃりと言う。 「シフォンケーキ、もう少し丁寧にできるよね。お客様は見透かしていらっしゃるよ」
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