弟の声、兄の音

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 洗い物から2時間後、絹都(けんと)は新幹線に乗っていた。  洗い物を終え、母から現金を預かって自転車に乗り、片道20分はかかる銀行に向かうはずだったが、衝動的に銀行の先の駅に向かってしまった。窓口でノートを出して行き先を書いて見せると、駅員はそこまでの切符と特急券を発券してくれた。  握りしめたスマートフォンに、着信は来ていない。母は店が忙しくてスマホをあまり見られていないのだろう。母は今朝、SNSに「今日は閉店後にウエディングケーキの作業をしまーす」と投稿していた。この感じだと、深夜までスマホチェックはできないはずだ。  駅のコンビニで買った、ペットボトルの緑茶とおにぎりが井の腑に落ちると、数年ぶりにお茶と米飯を摂取した喜び、母の仕事の金を勝手に使った後悔、溜まった疲れが混沌と湧いてきた。  絹都は、ブックマークしていた動画を再生する。絹都が住んでいる田舎とはまた違う田舎の、和太鼓の演奏だ。年配のメンバーに混ざって若い男性が大太鼓を叩いている。若いといっても、30歳になるはずだ。精悍な美男子とSNSで一時期話題になった。  お兄ちゃん。  絹都の喉が、(うず)いた。  絹都は自宅の鍵を持っていない。母の言い分は「絹都くんがお店にきてお手伝いしてくれるから問題ないよ〜」だった。そのせいで、絹都は普段から夜遅くにならないと家に入ることができない。母は帰宅してからも、試作や会計管理にかかりきりになってしまい、諸々の家事は絹都が行う。勉強に割く時間も、睡眠時間も、確保が難しい。母が売れ残りのスイーツや試作をキープするので、それを消化するのが「食事」になっていた。  絹都はお小遣いをもらったことがない。スマートフォンは電子決済サービスに対応しているが、履歴が母にも見られるようになっている。見られるたびに、「わざわざ無駄遣いしなくてもいいのに〜」と難色を示された。飲料さえも、自宅の水道水を指定された。  母が持たせてくれたクッキーやスコーンを咀嚼する絹都を、見かねたクラスメイトが、コンビニでサラダを買ってくれたことがあった。母の店の客がそのやり取りを目撃しており、絹都がクラスメイトに奢ってもらったことがすぐに母に知られ号泣されてしまった。 「絹都くんは、ママのつくったものが食べられないの?」  それを目の当たりにしたときだろうか。絹都の中で、何かが崩れ始めたのは。
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