ただ君に会えたら

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ファークスは黒い犬だ。世界が戦争で崩壊してから、生き残った動物は多くはない。 あの日、原爆が世界で5発落とされた日、僕とファークスは山奥の洞窟にいた。 戦争が始まって、死ぬつもりだった。一緒に暮らしていた恋人のアリアとふたり。毒薬を飲んで死のう、そう誓っていた。誰も傷つけたくないし、傷つけられるのも嫌だった。だから「死のう」とアリアとふたり、決めていた。 山奥の洞窟での暮らしは、一週間くらいだった。食べ物と飲み物、灯りと少しの本、ラジオ、それだけ持ち込んで、僕たちは山奥の洞窟で二人と一匹で暮らしていた。 その日、空襲が来ることは分かっていた。軍の上部に友達がいた。彼は、僕にその日の夕方に空襲が一斉に行われると、教えてくれた。彼は一緒にシェルターに入らないか、と誘ってくれたけれど、自然も民も息絶えた枯れた大地で、自分たちだけ生きながらえるのは堪えられなかった。 だから礼を言い、丁寧に断った。 空襲は夕方だ。それまでに準備をしなければ。そう思っていたら、アリアが顔を洗いたいと言い出した。最後に化粧をしたいと。お気に入りのワンピースで死にたいと。アリアはとても綺麗だったし、オシャレだった。 ただ死んでいくことへの、ささやかな抵抗だったのかもしれない。または、僕に最後に綺麗な姿を見せてくれようとしていたのかもしれない。 どっちにしろ空襲は夕方だ。まだ朝方だったその時間なら、問題ないと思った。ついていこうとすると、アリアは一人でいい、と言った。 すぐに帰ってくると、僕の頬にキスをした。泉はすぐそこだ。大丈夫だろう。そう思って一人で行かせた。 暗い洞窟で、薄い灯りをつけて、僕は本を読んでいた。その本には綺麗な言葉がたくさん詰め込まれていて、今が戦争中で、もうすぐ原爆が落とされることさえ、忘れさせた。 アリアの帰りが遅いな、と気になりだした頃、僕はいてもたってもいられなくなって、泉に向かった。そこにアリアはいなかった。ただ、アリアが髪につけていた花が落ちていた。 辺りを一通りさがして、僕は最悪な結論に至った。 アリアは、多分兵士に連れ去られたのだ。空襲するにあたって、このあたりに人がいるか、調べにきたのだろう。 いるわけない。ここは誰も住まぬ山。 だからここを選んだのだ。兵士がくる心配もない。 まさか?僕は一つの疑問に行き当たった。軍上層部に友がいた。さっきシェルターに誘ってくれた、と言ったその人物。彼は学生時代の友達で、そうして僕と同じくアリアに惚れていた。ディカルア。彼しか僕たちの居場所は知らない。彼が、アリアを連れ去った? ありえない話ではない。 そこで僕は電撃に撃たれたようなショックを受けた。アリアを、あいつに? そう考えると、怒りで頭が沸騰しそうだった。大体、アリアはどうなる。ディカルアの女になるのか? アリアは自分一人だけ生き残っても、幸せとは思わないだろう。僕たちは一つの魂を二つに割って生まれた、お互いがお互いの片割れと思っていたから。 魂の片割れと、思っていたから。 僕は急いで携帯でディカルアに連絡を取った。果たしてディカルアはすぐに応答した。 「どうした、シェイスン。急な連絡だな。シェルターに入る気になったのか?」「ディカルア、アリアをどうした?」しらばっくれることを許さない、断定的な声で僕はそう聞いた。ディカルアは黙っていたが、それが答えだった。 「アリアも道連れなんて、随分勝手なんじゃないか?シェイスン」「それで攫ったか。アリアも望んだことだ。横やりはやめてもらおうか」「アリアは私の妻となる。これからアリアは私に抱かれる。そうすれば、アリアも気づくだろう。オマエと私、どちらを愛するのが正しいか」「アリアはオマエなど愛しはしない」「どちらにせよシェイスン、オマエはそこで野垂れ死ぬんだ。一人でな。精々権力のない自分を恨めばいいさ。さよならだ、シェイスン」「何を……」ぷつり。電話は切られらた。僕は悔しくて悔しくて悲しくて。絶望した。 けれど空襲の時間は刻一刻と近づいている。 私は洞窟の奥のほうまで行ってみた。死ぬつもりだから、生き延びる方法は考えていなかった。しかし、アリアをひとり、置いていくわけにはいかない。ディカルアはこれからアリアを抱くといった。それでアリアは自害してしまうかもしれない。生きてくれ。生きてくれ。 僕も生きる方法を考えるから。ファークスと二人、私は洞窟の奥へ向かった。洞窟は奥のほうは狭くなっていて、ファークスと自分がなんとか一列に横たわれる場所があった。 ここなら。もしかしたら、ここなら。原爆の被害から逃れられるかもしれない。頼む、そうであってくれ。 私は祈りながら、ファークスの背を腕を伸ばして撫でて、時を待った。 *** それから何時間が経っただろう。一日は過ぎているはずだが、爆音はなかった。どういうことだ?ディカルアが嘘をついた?いや、そんなはずはない。昨日、空襲は行われる予定だった。ラジオでもそう言っていたではないか。ではなぜ?恐る恐る洞窟を抜け出して外へ出てみた。そこは穏やかな木々と、泉があるだけだった。けれど、山の上から下を見下ろすと、あちこちから白い煙が立ち上っていた。 空襲は、あったんだ。確かに、昨日。ただ、この山だけが被害を免れた。 アリア?アリアがディカルアに頼んで、空襲を外してもらった?代償に、自分を捧げて。ぶるり、背筋が震えた。 許さない、ディカルア。アリア、どれだけ悔しく、つらかったことだろう。 どうする?ディカルアの居場所を突き止めるか?しかし相手は軍部だ。僕一人の力ではどうしようもない。 どうする?考えろ。考えろ。アリアを救えるのは僕しかいないんだ。考えろ。 僕は、その日一日、一瞬も休まずに、考え続けた。翌朝、泉に顔を洗いに行くと、知らない男が映ってた。それは、知らない、ではなく、よく見ると自分だった。髪が、白髪になっていた。怒りと、思考と、悔しさと。そんなもので、白くなったのだろう。 老人のようだ……悲しくなったけれど、それでも。 僕は淡々と、考え続けた。 *** 豪奢なペルシャ産の絨毯、その上に毛皮の敷物。 悪趣味な部屋で、私はただ外を眺めていた。 「アリア、あれから十年も経つのに、いまだにシェイスンのことが気になるのかい?」 私は憎しみを込めた瞳でディカルアを見た。30にしては落ち着いているので少し年上に見える。昔から変わらない堂々とした態度は、不遜ともいえた。シェイスンはそんな彼を尊敬していたようだけれど、私は大嫌いだった。何でも、欲しいものは自分のものにしなければ気が済まない性格で、ディカルアが手に入れられなかったのはこの私ただ一人と言われていた。それが余程悔しかったのだろう。 ディカルアは卑劣なやり方で私とシェイスンを引き裂いた。決して許せることではない。 あの時、シェイスンのいる場所に原爆を落とさない約束で、私はこの男に抱かれたけれど、それ以降は一度も肌を重ねていなかった。無理やり抱けば自害する、と宣言してあった。 だからディカルアは仕方なく、愛人を沢山作った。なんとも思わなかった。興味がそっちに移ってくれればラッキーだとさえ思った。 死にたいほどの恥辱と苦しみを受けて、私が未だ生きているのは、シェイスンに再会するためだ。 もう生きているかもわからないシェイスン。いいえ、きっと彼は生きている。 人に会うたびにシェイスンの写真を見せたが、彼を見たものはひとりもいなかった。 シェイスン、永遠の愛を誓った。彼が私で、私が彼だった。彼のいなくなったいま、十年も生き延びているのが自分でもおかしかった。シェイスンと離れるようなことがあったら、即死んでしまうとおもっていたからだ。 会いたい。会いたい。会いたい。 シェイスン。今どこにいるの?窓の外を眺めていると、物乞いの一人がこちらを見上げているのが見えた。白い髪の老人。そしてふと目をとめた。 ファークスによく似た、黒い犬。私は胸騒ぎがして、玄関に向かった。 玄関では門兵が、物乞いたちを追い払っている最中だった。 話を聞けば、彼らはただの物乞いではないようで。どうやら宗教関連の団体らしかった。 白髪の男が言った。 「われらに施しをしなければ、そのうちこの家の衰退するでしょう。見えますか?黒い影が。当主様はご病気ではありませんか?」 内密にはされていたが、それは事実だった。 ディカルアは病魔に侵されていた。それも全く謎の病魔に。 それが私が少しづつ毒を飲ませているからだと、知るものは一人もいなかった。ただ、主治医はが首を傾げるだけ。 あの時一緒に飲もうと誓った毒。それは、一気に飲めば苦しまずに死ぬもの。けれど少しずつ摂ると、身体を少しずつ蝕んで、パニックに陥ったり、倒れたりする、苦しみを伴う危険な薬だった。 実際ディカルアも軍部の会議中にパニックに陥り、将校を悪魔と見誤って発砲したり、奇行が増えていた。 年も30、まだ若い。これからもっと出世をするはずだったディカルアは、軍部から追放処分の声も上がっていた。 それが病魔のせいだと、この老人はどうしてしったのか。ファークスに似た犬はなんなんのか、私は近くで見てみたくてそろり、玄関を出た。と、老人はさっとフードを被りなおして、背を丸めて、「奥さまですか、どうぞご慈悲を」差し出された両手をみると、薬指に見知った指輪が嵌っていた。 シェイスンが青、私が赤の石の入った指輪…… 彼は青い石の指輪をしていたのだ。私は思わず息を飲んで、己の赤い石の指輪を掲げた。 「おじいさん、それをどこで?それは、私の片割れの男性が、持っているはずの指輪。犬の名前は?」 老人はにやりと口だけで笑うと、「ファークス」 それだけ言った。 私はあまりの驚きに、倒れそうになった。 この犬は、確かにファークス。そして老人の声は……わざとしゃがれさせたような、声。それはシェイスンの声にとても似ていた。 老人と人々は、そのまま帰っていって、私は引き止めることさえできなかった。 *** 「しっているか?ディカルア公のあの噂」「ああ、流行病だという」「家の周りに消毒液を巻いたり」「噂を恐れて使用人はもう誰もいないという話だ」「態度も言動もおかしいし、もうダメなんじゃないか」「それより、旅行帰りに病に倒れたそうじゃないか。本当に流行病では?」 不穏な噂が囁かれだした。それも、僕の計算通りだった。 白い消毒薬を巻いたのは我々だった。あの日、あの場所で考えに考えた自分は、十年待った。被爆しないように、あの場所で。 本部の位置は知っていたから、長い時間をかけて歩き、仲間を見つけ、手当し、教祖に成り上がっていった。 元々医学部だった自分には、簡単な手術や手当はお手の物だった。 民衆はそんな僕にすがり、崇めた。 そして、ついに。ついにアリアまでたどり着いた。 アリアは変わらず美しかった。かなり痩せてはいたが、それでも、絶世の美貌は失われていなかった。僕を青ざめてみた瞳。 この老人が僕だと、気づいただろうか。聡い君のことだから、きっと悟ったろうね。 もうすぐディカルアは自滅する。まっていてくれ、アリア。今、助けに行く。 *** 「また物乞いがきているのか」ディカルアは苛立たち気味に吐き捨てた。「もとはと言えば、あいつらが消毒液なんて撒くから」「あら、あなたに天罰が下ったんじゃなくて?私たちにあんな酷いことをしたんだもの。病気もそう。天罰よ」 くすくす笑いながら言ってやれば、猟銃を持って、ディカルアは部屋を飛び出した。病人らしからぬ素早い動きに、一瞬遅れをとった。私はディカルアの後を追い、階段を下りた。 と、先頭にまた、あの老人がいた。ファークスをつれて。 「ディカルア伯爵公に、天罰を!原爆を落としたのはこいつだ!さぁ、みんな、天罰を下そう!」 ディカルアが真っ赤になって猟銃を放った。けれど老人は倒れなかった。弾は当たっているのに。衝撃に身体を揺らすだけだ。 「何故……」 「お前が、死神に憑かれてるからさ。僕は、本物の神だから。さぁ、みんな!復讐の時だ!」 ディカルアが猟銃を撃つ。倒れるものもいるが、それよりディカルアを押し倒す力のほうが強かった。相手は大人数。ディカルアは、猟銃も奪われ、地べたに這いつくばった。 と、老人が被り物を取った。 「この顔に見覚えはないかい?」 ディカルアは大きく目を開いた。 それもそのはず。そこにいたのは、髪は白くなっているけれど、紛れもない、彼の姿だったのだから。 「天罰を」 取り出した拳銃で、一発。老人は、シェイスンは。 ディカルアを撃ち殺した。 私は死骸を飛び越えて、シェイスンに抱き着いた。 「ああ、生きていたのね。やっぱり。助けに来てくれたのね」 「当たり前だ。魂の片割れを置いて、死んだりしないさ」「銃の弾はあなたを殺さなかった。なぜ」「簡単な話さ。防弾ベストをしている」 私たちは抱擁し、口づけた。夕刻、オレンジの光の中で。 どれだけ会いたかったか。触れたかったか。魂がちぎれそうなほどに、つらかったけれど。 ただ、≪君に≫≪貴方に≫再び会えたら。 それだけを思いながら生きた。 悪意も運命も、戦争でさえ。 私たちの絆は壊せなかった。 ならこれからも、一緒に居よう。離れてたぶん、やり直すよう、じっくり味わいながら。 ≪君≫≪貴方≫が言ったありがとうに。 涙がこぼれた。 Fin
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