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ファルコルフシ島に向かう小さなボートは、深夜の海上をゆっくりと進んで行った。飛行機を降りてホテルのある島に向かう乗客は、ダイビング目的のわたしとるりちゃんを除いて、他は全員日本人の新婚旅行客のようだった。これは、まだバブルの余韻が残っていた時代の話である。
漆黒の夜空に、こんなにたくさんの星がこぼれ落ちそうに瞬いているのを見たのは、生まれて初めてだった。いや、これからもきっと見ることはないだろう。周りのカップルたちは、海風に髪をなびかせながら肩を寄せあい、満天の星空を見上げて甘く囁きあっている。
ロマンティックな雰囲気を壊したらあかん。わたしとるりちゃんは、目くばせをすると口を固く閉じた。
それから数日間、わたしたちはモルディブでダイビング三昧の日々を過ごした。有給をしっかり消化し、たっぷり遊んで、帰ったらバリバリ働く、が当時の二人のモットーだった。
「ドリフトダイブ、楽しかったな。海は怖いくらい青くて深くて……」
ホテルのレストランで朝食のオムレツを頬張りながら、わたしはじみじみと言った。
「見たことない魚がいっぱいいて夢中で追いかけたわ。インストラクターとはぐれんでほんまによかった」と、るりちゃんが肩をすくめた。
「そのために目立つド派手原色ウエットスーツにしたんやんか!」
わたしたちはガハハと笑った。
「心残りは、マンタと会えんかったことやな……」
るりちゃんがポツリとつぶやいた。明日日本に戻らなければならないと思うと、急に寂しさが押し寄せてきた。ふと視線を感じて、わたしは斜め後ろのテーブルを振り返った。行きのボートで一緒だった新婚さんだった。何回かこのレストランやホテル内で見かけたけれど、言葉を交わすことはなかった。三十代前半くらいだろうか。とても上品な、いかにも東京の洗練されたカップルという雰囲気だった。じっとこちらを見て何か言いたそうにしている。やばい、うるさかったか……。関西人の特徴で、興奮するとつい声が大きくなる。わたしたちはそそくさとナプキンをテーブルに置いた。
「あのー、ダイビングが趣味なんですか?」
席を立とうとしたわたしたちに、女性の方が微笑みながら声をかけてきた。
「はい……」
何を言われるのかとビビッて声が上ずった。
「時々ここで一緒になったでしょ? お二人の会話は本当に面白いですね。まるで漫才みたいで、こっそり聴いて夫と笑ってたんです。楽しい人たちだねって。ねー?」
彼女は夫に同意を求めるべく笑いかけた。
これは褒められているのだろうか? それとも嫌味か? 苦笑いで誤魔化していると、夫の方が口を開いた。
「今日これから、クルーザーをチャーターして沖へ出るんです。シュノーケルもできます。もし良ければ、僕ら夫婦と一緒に行きませんか? ご招待しますよ」
クルーザー? チャーター? シュノーケル!? ご招待!!??
「はい!! 是非ご一緒させてください。ありがとうございます!!」
食い気味に返事をすると、後で桟橋で待ち合わせる約束をして、一旦別れた。それにしても、なんでわたしたちを誘ったのだろう? 色んな考えが頭をよぎったが、ワクワク感の方が先に立って、あれこれ思いあぐねるのはすっぱりやめた。
桟橋に着くと、大きくて真っ白なクルーザーがわたしたちを待っていた。その前で新婚さんが笑顔で手を振っていた。
「お待たせしてすみません。今日はよろしくお願いします!」
ペコリとお辞儀をすると、わたしとるりちゃんは新婚さんの後について踊る足取りで乗船した。わたしたち四人は、船長さんとガイドさんの熱烈な歓迎を受けた。
「うわー、かっこいいなー! 加山雄三みたいやんか?! すごいなー!」
船上には美味しそうなフルーツや飲み物、軽食まで準備されていた。わたしとるりちゃんは見るもの全てに嬌声を上げた。
クルーザーは、キラキラ光る波を次々に越えながら目的地に向けスピードを上げた。真っ青な空と輝く太陽の下、風を切って進む船の上で、わたしたちは初めてお互いの自己紹介をした。名前、出身地、職業、なんでモルディブを選んだのか、趣味はなにか、など……。ちなみに、新婚さんはやっぱり東京の人だった。ふたりは、わたしたちの面白ダイビングエピソードを聞くたびに、お腹を抱えて笑ってくれた。そうこうするうちに、クルーザーがゆっくりと速度を落として止まった。周りには何もない。どこまでも美しいコバルトブルーの大海原が広がっているだけだった。
突然、一人のガイドさんが海中を指さして大声を出した。英語だしはっきりとは聞き取れない。すぐに新婚さんが立ち上がった。
「シュノーケルの用意して、ほら、飛び込んで! 早くしないとマンタが行ってしまうよ!」
「マンタ!?」
るりちゃんとわたしは顔を見合わせ叫んだ。何が何だかわからないまま、とりあえずゴーグルをつけシュノーケルを咥えると、転びそうになりながら慌ててフィンを履いた。
「せーの!」
わたしたちは手をつなぐと船上から海に向かって大きくジャンプした。海中で体勢を整えると、畳より大きな黒い影がすぐそばにいるのがわかった。
マンタや!!
一度海上に頭を出して呼吸を整えた。下をのぞくと、何枚かの大きなマンタと子供のような小さなマンタが、群れを成して悠々と泳いでいるのが見えた。こちらを恐れる様子はなく、大きな横ヒレを優雅に動かしている。
「行くで!」
深く息を吸い込むと、るりちゃんとわたしは勢いをつけ再度海中に潜った。夢にまで見たマンタがそばにいる。底の見えない青一色の世界に包まれて、わたしたちは憧れのマンタと一緒に、ただふわふわと浮かんでいた。
どれ位たったのだろうか? 幸せな時間はあっという間だった。マンタたちはどこかへ去って行き、わたしたちは船上へ戻った。
「マンタと一緒に泳げました! 感激です!!」
「よかったね! いいタイミングだったね!」
身振り手振りを交えてしゃべり続けるわたしたちの話を、新婚さんは微笑み頷きながらいつまでも聴いてくれた。
新婚さんとは、まさに一期一会だった。こんなに素晴らしい体験をさせてくれたのに、当時のわたしたちは、感謝の気持ちをきちんとあらわす方法に考えが及ばなかった。なんてバカだったのだろう。すっかりおばちゃんになったるりちゃんとわたしは、この話になると、あの場面に戻って、若かったふたりの頭を後ろから思いっきりはたいてやりたくなるのだ。
モルディブ共和国は、地球温暖化の影響で海面が上昇し続け、いつか地図から消えてしまうかもしれないのだそうだ。
スマホも写メもラインもなかった時代である。しかし、この目にしっかりと焼き付けた光り輝くシーンの数々は、いつまでも消えることなく、鮮明にわたしたちの胸に残り続けるだろう。
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