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一年後、依月はスランプに陥っていた。素人なのにスランプという言葉を使うのはおかしなことかもしれないが、少なくとも依月はそう思っていた。物語が全く書けなくなってしまったのだ。何のアイデアも出てこず、煮詰まっていた。
――もう何ヶ月も何も書いてない。このままじゃ完全に忘れ去られる。もう無理かも。
そんな時、ふと沙耶のノートの存在を思い出した。机の引き出しを開け、ノートを取り出す。中には面白そうなネタがたくさん書かれていた。投稿サイトの沙耶のアカウントにログインしてみると、たくさんの感想やダイレクトメッセージが届いていた。みんな突然活動をやめた沙耶のことを心配しており、物語の続きを読みたがっているのだ。
「沙耶、許して」
依月は沙耶になり変わって小説を書くことにした。何食わぬ顔で沙耶を名乗り、沙耶のノートを使って物語を書いた。読者たちは嬉しそうに感想を残した。
『お久しぶりです沙耶先生!執筆の腕を磨かれましたか?地の文が濃厚というか、より文学的で読み応えあるものになりましたね♪』
『沙耶さんが戻ってきてくれて嬉しいです。続き楽しみにしています!文章うまいです!』
『書籍化はいつですか?』
乾いた笑いが依月の口から漏れ出た。
――これが読まれる人間の気持ちか! これが人気者の日常か! 伊月サトとは大違い! 私は私以外の人間にならないと駄目だったんだ!
沙耶は依月がなりたい存在そのものだった。
それから一年近く、依月は沙耶として活動を続けた。伊月サトとしての活動はすっかりしなくなり、SNSからも遠ざかっていた。必要ないのだ。知名度のある沙耶が書く作品ともなれば、依月自身が考えたオリジナルの物語も自然と読まれ、承認欲求もある程度満たされた。
もう底辺で藻掻き続ける「伊月サト」には戻れない。そう思っていた。いっそアカウントを削除してしまおうかと思い、依月は自身のアカウントにログインした。
久しぶりにマイページを開いてみると、『感想が届きました!』という通知が表示されていた。
「うそ。こっちに感想が来てるなんて……」
恐る恐る感想ページを開いてみると、そこにはこう書かれていた。
『伊月サト先生へ
初めて感想を書きます。これまで伊月さんの作品はすべて読んでいましたが、私は文章もへたくそですし、失礼になってしまうのではないかと思って、恥ずかしくて、なかなか感想を書けませんでした。私は伊月さんの小説が好きです。この小説も主人公の女の子にすごく共感しました。最近全く投稿されていませんが、お元気にされているでしょうか?SNSでは自作が全く読まれないと悲観してらっしゃって、ちょっと寂しかったです。読んでいる人はここにちゃんといるのに……!って。正直心配です。もしお元気にされているのでしたら、また伊月さんの小説が読みたいです。あ、でも無理はしないでくださいね。それでは、これからも微力ながら応援しています!』
依月はこれまでの伊月サトとしての自分を振り返ってみた。SNSでは「読まれない」「ブックマークが少ない」と嘆いてはいたが、全く読者がいないというわけではなかったのだ。SNS上でもネガティブな投稿をする依月を気にかけてくれている人もいるにはいた。しかし、依月はそれでは満足せず、たくさんの人たちに承認されなければ意味がないと思い、彼らをいないもの同然としてぞんざいに扱った。
とんでもないことをしてしまったと、ようやく気が付いた。自分は沙耶ではない。沙耶にはなれない。なる必要なんてない。彼女はもうどこにもいないのだ。
「沙耶……」
沙耶が死んでしまったことの喪失感が、今になってようやく心の底から沸き上がってきて、依月の目から大粒の涙がいくつも零れ落ちた。
――戻らなきゃ。だって私のいるべき場所は……
滲む視界を何度も擦りながら、彼女はその感想に返信した。
『ご無沙汰しております。伊月です。ただいま戻りました。』
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