6  タオル

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    五月の中盤、夏は七月に控えている書類審査・面接・学力試験に向けての本格的な準備を始めていた。  そのため熊本くんとの情報のやり取りは、しばらくはやり難くくなるかもしれない、でもなるべくは連絡すると伝えた夏に熊本くんは、  「いや、だめだよ。今大事な時期なんでしょ。村井さん的に。俺はヘーキだからさ。連絡も俺からは一切しない。だから村井さんも準備に集中したほうがいいって。」  と少し怒ったような口調で伝えられた。  夏は熊本くんが心配だった。彼はペットのインコやお母さんの件でもそうだったが自分を蔑ろにして相手のことばかり考えてしまっている気がした。  「そんなんだから病んじゃうんでしょうに…」  と夏は呆れたような口調で独り言を呟く。  夏は今はもうすっかり学校を休みがちになっていた。母はせっかくの高校生活、もう少し満喫したら?制服代ももったいないし…と渋っていたが変わりに家で学力試験に備えるからと話すと渋々承認した。  そもそも、夏は今の学校に身を置く気も元からなかった。そのまま何処にも在学せずに通信制高校に入ることを望んていた。しかし、自身とは円も縁もないようなおバカ学校について、母は少し興味を持っていたようだ。そこで、通信制にはいつでも行けるのだからその学校でしか体験できないような経験をしてみろと、母親に半ば強制的に入ることを決められたのだった。  「なーにがその学校でしか体験できないような経験よぉっ。おかげで貴方の娘は心身ともにボロボロですよっ。学費の無駄だっつーの。」  と、夏はワークブックに向かいながら独り言として愚痴をこぼす。    何となくくさくさして、ワークブックの文字や数字が頭の中でばらけ始めてきた頃、夏はふっと熊本くんが今、どうしているのかと思い始めた。  話すのがだめでも、彼のブログを見てみるのはノーカンだと自分に言い訳しつつ、恐る恐る、栞に書かれていたURLを検索バーに入力する。  表示された彼のブログをスクロールし、最新記事が出てはいないかと確認してみる。  そんな夏の目に飛び込んできたのは  『友達に嫌われたかも』  というタイトルだった。    その瞬間、夏は心臓を冷たい手に鷲掴みにされたような感覚に襲われた。  「何、どうしたってのさっ」  と、流行る気持ちを抑えながら夏は必死にスマホの画面をブログページから連絡先ページへと切り替える。  どうにかしてして熊本くんに繋がれと念じ、何度切られても通話ボタンを押し続け、ようやく6回目の通話で熊本くんの聞き慣れた声がスピーカー越しに聞こえてきた。  「もしもし…」  熊本くんの様子はその声からも一目瞭然だった。何処か大事な物を自分自ら切り離そうとしておるような、何かを諦めきっているような声だった。    夏はまるで息が絶え絶えの人へと必死に息を送ろうと人工呼吸をするかのように、早口で応答する。そうでもしなくちゃ今にも彼がこの世から消えてしまいそうだったからだ。  「もしもしっ、熊本くん?私、夏。今さっき、熊本くんのブログ見てて、その、ごめんねなかなか連絡出来なかったから…。あ、で、でもね、今はだいぶ学力試験のこととか落ち着いてきたから、これからはいつでも連絡…」 そこまで夏が話すと、その夏の声に被せるように    「いや、もういいんだ。」  という熊本くんの声が聞こえた。  夏にはそれが死神が熊本くんの首筋に釜を当て、死を宣言したように感じた。  とっさにそのイメージを振り払おうと夏は金切り声のような、悲鳴のような声を上げた。  「何っ!何がだめなのっ、何がだめなのかちゃんと説明しなさいっ!だめだからね絶対っ!!ふざけないで!」  夏の、その子供を叱責する母親のような声にスピーカー越しで熊本くんがビクッと怯えたのが感じ取れた。  「いや、その…分かってたことじゃん。松井さん、頭いいから分かるでしょ。ほんとは元からいい解決法が無いってこと。」  今度はその熊本くんの声に被せるように夏が話し始める。  「そんなことない!いい方法はあるよ!熊本くんも私と一緒に通信制高校に行くとかさっ!通信って、派手に髪染めたり、私とか熊本くんみたいに環境に馴染めないから、そこからそういう通信制高校の中で青春を送ろうっみたいな人とかもいるしっ。その中に格好いい人とかもきっといるよっ。通信制高校とは言ってもいろんな学校あるし!大人っぽい人とか、本当にもう大人になってる人とかさ!」  スピーカー越しで薄っすらと熊本くんの笑い声が聞こえた。  「何、本当にもう大人になってる人って、言い方っ。松井さん、ほんと、会ったときから思ってたけど芸人の才能ありそ〜」  そう言いながら彼の声がいつもの聞き慣れたお調子者の声に戻っていくのを夏は感じた。  「ほっといてよ。どーせ変ですよ私は。変な私でも生きてるんだから生きてよ…。」  気がつけば夏の頬からは涙が伝っていた。父親と母親の仲を割くことになった原因のびんたを貰ったときも自分は泣かなかったのに…。 ぼんやりする頭で夏は不思議だなぁと思った。  そんな夏の様子を察したのか熊本くんは  「あ、ごめん。ごめんね。俺、女の子泣かせてんじゃん。罪な男〜。ヘイ、ベイベー、涙は君に似合わないぜぃ。僕の部活で使ったタオルで涙をお拭きっ」  とふざけ始めた。  夏は思わず泣いているのか笑っているのか分からない変な声が口から漏れた。  「ちょっ、やめてよっマジで!ちょっと、ほんとお腹痛いって、いらねーよ臭え!」  「へいへい、ベイベー、そんなお下品なことは言うもんじゃないぜぇ。このタオルのどこが臭いってんだい。」  夏は今、部屋中に響き渡っている気持ち悪い自分の笑い声が、近所の人に聞かれていたら一生の恥だとうっすら思った。  そうして笑いが終焉し、お互いに息を整える頃ふと、夏はふざけていた熊本くんの発言の一つを思い出した。  「そういえば部活、行ってきてたんだ。何部だっけ?」  「え?あー、言ってなかった?サッカー。」  そっかーと返答しながら考えてみれば、私と熊本くんはお互いの部活も知らないんだったなぁと思い、少し不思議だなぁ、と夏は思った。    「なんだか不思議だね。お互いの部活も知らないのに、こんなこと話してるなんて。」  「あ、そういやそーね。村井さんは何部だっけ?」  「私、私は小学校の時からずっと美術。芸術のベンキョーができる高校にほんとは行きたくてさ…。」  と、なんの気無しに夏は過去をカミングアウトし始めていた。  推薦でその高校に行きたかったこと、でも教師に断られたこと、仕方なく一般受験で行こうと思ったら交通事故に合ったこと…。  熊本くんは黙って夏の話に耳を傾けていた。そして夏が話し終えたあと、ポツリとこう言った。  「それってさぁ、あ、ごめん。村井さんは嫌かもしんないんだけどさ、それって縁無くね?始めっからさ、村井さんとその学校は縁が無くてさ、きっと神様がそっちに行くな〜って足止め食らわせたんじゃね?」  「縁?神様?」  「うん、そう。きっと村井さんはそっちの学校に行ったら駄目だったんだよ。で、こっちの学校に来た。で、今こうして俺を救ったわけじゃん。そういうことじゃね?」  夏は熊本くんの言っていることが少し分からなかった。    「え?私がいつ、熊本くん救った?全然救えてないじゃん。いい解決方法は全然見つからんないし…。私、ヤなやつだし…。」  「それは無いな。」  熊本くんは少し真剣な口調できっぱりと断言した。 「本当に人を救うのはさ、解決方法よりも『あなたが必要です』ってことを本気で言えることだと俺は思う。だから十分、村井さんは俺のこと救えてるよ。俺、昔から嘘を見抜くのちょっと得意だったんだ。さっきの村井さんの言葉とか、全然嘘に聞こえなかった。エゴとかそーゆー雑音みたいなものもなかったし。まっさらな感じだった。そーゆー言葉だから人の心に突き刺さるんだろーな。」  その熊本くんの言葉を聞きながら、夏は父が自分の言葉を聞いた瞬間、一瞬何かに怯えるような顔をしていたことを思い出した。  「ありがとう。なんか、私は逆に熊本くんの今の言葉がなんかのキーになった気がするよ。ありがと……えっとその…」  「?どした?」  「その、生きててくれてよかったって思った。熊本くんが今、ここに居なかったら、私はこの言葉とかも聞けなかったんだよね。」  夏は自分でも安っぽいメロドラマみたいなセリフだなと思っていた。でも、これはさっき、熊本くんの言葉を聞いて最初に脳裏に過ぎった言葉だった。  「おいおい、やめろって〜。そーゆーこと言うから変な噂たてられるんだしさぁ。なんか、俺たちの関係ってそーゆー系じゃねーのにな。」  「あ、ごめん。そうだよね。なんていうか、私達ってそういう関係よりどちらかといえば…。」  「姉と弟?」  「うん、それだ。」 「たしかに松井さんの俺に怒ってるときのあの感じ、ねーちゃんがいたらこんな感じなんだろーなって思うわ。でも、いくら俺の父親が分からないからってそれはないわな。」  「そうそう、第一、私の誕生日は2004年の6月、熊本くんは…」  「2004年の8月…って、松井さん、もう少しで誕生日じゃん!何日?誕生日。」  「えっとね、2日。」  「じゃあ、今日が5月の23日だから…。」  あと10日くらいか、  と、スピーカー越しで熊本くんの声がする。  「じゃあさ、俺、その日の夜に自電車で松井さんちに寄るわ。どうせ、その日、部活休みだし。そーゆーのっていいじゃん?貴方は望まれて生まれてきたんですよ〜って感じがして。」  「いいの?夜遅くに。危なくない?」  「いーのいーの、松井さんの方が2ヶ月くらい俺より歳上なんだしさ。先に17歳になった松井さんに会ったら、ほんとに俺のねーちゃんって感じするじゃん。」  ほんとのねーちゃんという熊本くんの言葉をくすぐったく感じながらも、夏は熊本くんに自宅の住所を伝えているときにほんわかとした幸せを感じていた。        
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