第一章 失恋とカノジョ

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第一章 失恋とカノジョ

真っ暗な部屋の中を、明るいスマホの画面がほのかに照らしている。 「さようなら」    無情にも、可愛らしい黒犬のアイコンが俺にそう告げた。    俺は、ぼんやりとそれを眺めながら、メッセージ画面を指先でなぞって、スクロールしてみる。    当たり前だが、画面はこれ以上何も変わらなかった。 「ふぅ……」  長いため息をついて、スマホを投げ出すと、腕をのばし、ベッドの上で仰向けになった。 壁にかけた時計の針が、耳の奥までチクタクと響く。     鼻の奥がじんわりと熱くなり、眼球に溜まった涙が、行き場をなくして溢れ出した。  目をつぶってよく考えると、ケンカの前にだって前触れは沢山あったことに気がついた。    しばらく前から、「最近冷たくない?」だとか、「昔はもっと優しかったのに」だとか、隣で歩く彼女の口から文句がぽろぽろとこぼれていた。  それでも、俺はなんとなく、この彼女とずっと一緒にいるのだろうと思っていた。  中学生の時に付き合ってから昨日までの四年間、俺の青春は彼女と共にあった。 これまでのケンカだって、その度に仲直りしてきた。   俺たちなら、この先何があっても乗り越えていける。   残念ながら、そんな考えは傲慢だったようだ。   分かりきっていたことだが、その事に気づけなかった。  つややかな黒髪の、肩までかかるセミロング。    お気に入りの水色のワンピースを着て、不器用な俺を、いつもいたずらな笑顔でからかって慰めてくれた。    そんな彼女が、昨日は頬を赤らめ、力いっぱい俺を睨みつけて涙を堪えていた。  この上なく愛おしいはずだった彼女に、どうしてあんなことをしてしまったのだろう。    布団を叩いて、暗闇に向かってそんなことを嘆いてみたが、もう、どうすることもできなかった。  蛍光色に光る時計の針は、夜中の3時を回っていた。   少し落ち着いた俺は、布団で顔を拭って、深呼吸して、再びゆっくりと目をつぶる。 彼女のシルエットが網膜に浮かぶ。    …俺は、彼女無くしてこれからどう生きていけばよいのだろうか。  もう二度と、話せないんだよな。    どうにもならないことばかりが、頭の中で飛び交う。   経験したことの無い不安が、俺を縛った。    しかし、うつ伏せでそんなことを考えているうちに、いつの間にか意識はどこかへ吸い込まれていった。 「はい。以上で講義を終わります。何か質問ある人は後で。」  教授のその一言を聞くと、静まり返っていた教室が、途端にざわざわと騒がしくなった。 「おい、そうた。どうしたんだよ。最近いつもこんな感じだけど、今日は輪にかけて酷いぞ。」 隣の席に座っていた、幼なじみの相原 ゆうきが声をかけてきた。   「ああ……」    俺はそれだけ言うと、喉元から湧き上がってきたあくびに身を任せた。   「お前なぁ、『ああ』だけじゃなにもわからないだろ。」    俺は目を擦って、広げるだけ広げてある、空白のノートをぼんやりと眺める。   ふと、頭ががくっと落ちて、支えていた腕がうごく。    その拍子に落ちた筆箱を、ゆうきが拾った。   「なるほど……。お前、りんちゃんにフラれたな?」    彼はきっと、筆箱につないであった小さなぬいぐるみが無くなっていたことに気づいたのだろう。    俺は、手に持っていたシャーペンでゆうきの腕をつついて刺す。 「痛い痛い、悪かったよ。」   ゆうきは、腕をつんつんした髪の生えた後頭部に持っていった。   「お前ら、中学の時とかクラスで一番仲良かったのにな〜。」  しみじみと言うゆうきを横に、俺はムスッとした表情で、散らかった机の上の荷物を鞄につめる。   「おい、もう帰るのか?」    「…うん。今日は二限以降はいいや」 「いいやって…。」    ゆうきはそう言いかけて、少しバツの悪そうな顔をした。  俺はそんなゆうきを後に、席を立とうとする。    しかし、ゆうきはポケットの中のスマートフォンに手を伸ばしたかと思うと、俺を呼びとめた。    「あ、そうだ。そんなお前にちょうどいいアプリ知ってるんだよ。」  振り返ると、スマホの画面の中で、3Dグラフィックのアニメキャラクターが、にこりと微笑んでこちらを見つめている。   「なんだよこれ。」 「『AIカノジョ』ってやつさ。この間、好きなYouTuberがやってて。」 「それで……俺にやれと?」   「いや、やれってことはないけどさ。お前、最近りんちゃんのことだけじゃなくて、色々悩んでるだろ。もしよかったら入れてみろよ。これ、結構凄いんだぞ。」    そう言うと、ゆうきはスマホの画面をつつく。   『ユウキさん、おはようございます〜!今日は、7月2日、月曜日。ただいま午前10時20分です!』    高いピッチの、機械音声の女の声が流れる。  前の席の女子学生が一瞬びくっとして振り返ったが、見なかったことにしよう。    ゆうきはスマホを俺の顔面に突き出して、どうだと言わんばかりに見せつけてきた。  振られたばかりの人間にそんなものを勧めるとは、なんとも無神経なヤツである。  彼女の代わりにしろとでも言うのだろうか。    こいつとも、腐れ縁がなければいつ離れていたか分からない。   俺はゆうきをぎょっと睨みつける。   「馬鹿馬鹿しい。俺はいいよ。そんじゃ、また。」   俺は軽いトートバッグを肩にかけ、早足で教室を出た。   布団が、ベッドから落ちていた。    散らかった部屋に、窓から陽が射す。   「ふぅ……。」    俺は精一杯に息を吸って、吐く。    すっかり椅子代わりとなったベッドに腰掛けて、アプリを開いてみる。     繋がっていたSNSは、全てブロックされているようだ。  なんの目的もなく、画面をスクロールする。    おやつの入った皿に、必死で顔を埋める猫も、今は、俺の心を癒してくれなかった。 「そうた、猫とか好きなんだね」    目を細くして微笑む彼女が、フラッシュバックする。 俺は頭を振って、その妄想を頭の外に追いやった。  もう、全て忘れて寝てしまおう。  そう思って、スマホの電源を切ろうとしたその時、俺の手が止まった。 『かわいいカノジョが、あなたの悩みを聞いてくれます。』  ポップな字体で書かれた広告が、画面の端に小さく表示されているのに気がついた。  ああ、さっきゆうきが言っていたやつか。   彼の前では馬鹿馬鹿しいと言ったが、それは傷心した自分を励ますための、強がりなのかもしれない。    彼だって精一杯慰めるつもりだっただろうに、悪いことをしたなと思った。  とりあえず、入れるだけ入れてみようと考える。   今は、それがゆうきへの償いになるような気がした。    俺が彼女を失ったのも、こうしたガサツな態度が原因だったのではないかという気がして、少しいやな気持ちになった。   そんなことを考えているうちにも、この『AIカノジョ』とやらはあっという間にダウンロードされた。    スマホ画面の雑多なアプリアイコンが、ひとつ増えた。
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