ミステリー作家 高下美和の推理

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 彼はその勢いで、プロポーズまでしてくれた。私たちは婚姻届にサインをし、役所に提出するところまで来ていた。  2人で新しい生活を始め、田舎でのんびりとした日々を送ることを夢見ていた。  全てが崩れたのは、彼の突然の言葉だった。 「考え直したい」  彼は慎重に言葉を選んで言った。「社会人としてのキャリアが、これでいいのか考え直したい」というものだった。田舎での生活に不安を感じたのかもしれない。  小説家である私と、会社員とでは、住む世界が違うことを思い知った。  そして、私は1人でこの村に移り住むことを決めた。 「もう、遅いよ……」  スマートフォンを見つめ、返答すべきか迷う。怒りとも、哀しみともつかない思いが交錯していた。  だが今は、感情に振り回されている場合ではない。私はノートに向かい、事実の整理に戻った。メッセージの返答は、監禁の危機を乗り越えてからでも遅くない。  1組だけという募集の狭き門を潜り抜けた私は、逃げるようにこの村へと引っ越してきた。  都会から離れる不安はあった。しかし、到着したときの歓迎ぶりに、不安は打ち消された。 『ようこそ、嵐山さん!』  役場に足を踏み入れた私を迎えたのは、名前の書かれた巨大な垂れ幕と、数十人もの村人の笑顔だった。 「ご夫婦で移住いただけるなんて、この村の未来も明るいですなあ」  村長の小山田が両手を広げ、満面の笑みを浮かべていた。  その言葉に、私の心臓は跳ね上がった。 「え、ええ。これから、お世話になります」  震える声でそう言った私は、両手を揃えて丁寧に頭を下げた。  結婚は破談になったんだけど……。  夫婦だと言われるのは当然だった。移住の申し込みをした時点では婚約していたので、婚姻届を提出してから一緒に移住するつもりでいた。そのため、彼の名前『嵐山』で募集に申し込んでいたのだ。  盛大な歓迎を前にして、真実を話すことができなかった。人間関係ができてから話せばいい、軽くそう思っていた。  私の荷物は中型トラック1台分に過ぎなかった。搬入はあっという間に終わった。 ――ご近所に挨拶に行った方がいいのだろうか?  家々は点在しており、隣の家に行くだけでも数分かかる。どうしようかと悩んでいると、不意に玄関口から大きな声が響いた。 「お困り事はないですか?」  現れたのが峠だった。都会では、突然押しかけるような行動は奇異に思われるかもしれないが、田舎では普通のことなのだろう。
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