1人が本棚に入れています
本棚に追加
彼はその勢いで、プロポーズまでしてくれた。私たちは婚姻届にサインをし、役所に提出するところまで来ていた。
2人で新しい生活を始め、田舎でのんびりとした日々を送ることを夢見ていた。
全てが崩れたのは、彼の突然の言葉だった。
「考え直したい」
彼は慎重に言葉を選んで言った。「社会人としてのキャリアが、これでいいのか考え直したい」というものだった。田舎での生活に不安を感じたのかもしれない。
小説家である私と、会社員とでは、住む世界が違うことを思い知った。
そして、私は1人でこの村に移り住むことを決めた。
「もう、遅いよ……」
スマートフォンを見つめ、返答すべきか迷う。怒りとも、哀しみともつかない思いが交錯していた。
だが今は、感情に振り回されている場合ではない。私はノートに向かい、事実の整理に戻った。メッセージの返答は、監禁の危機を乗り越えてからでも遅くない。
1組だけという募集の狭き門を潜り抜けた私は、逃げるようにこの村へと引っ越してきた。
都会から離れる不安はあった。しかし、到着したときの歓迎ぶりに、不安は打ち消された。
『ようこそ、嵐山さん!』
役場に足を踏み入れた私を迎えたのは、名前の書かれた巨大な垂れ幕と、数十人もの村人の笑顔だった。
「ご夫婦で移住いただけるなんて、この村の未来も明るいですなあ」
村長の小山田が両手を広げ、満面の笑みを浮かべていた。
その言葉に、私の心臓は跳ね上がった。
「え、ええ。これから、お世話になります」
震える声でそう言った私は、両手を揃えて丁寧に頭を下げた。
結婚は破談になったんだけど……。
夫婦だと言われるのは当然だった。移住の申し込みをした時点では婚約していたので、婚姻届を提出してから一緒に移住するつもりでいた。そのため、彼の名前『嵐山』で募集に申し込んでいたのだ。
盛大な歓迎を前にして、真実を話すことができなかった。人間関係ができてから話せばいい、軽くそう思っていた。
私の荷物は中型トラック1台分に過ぎなかった。搬入はあっという間に終わった。
――ご近所に挨拶に行った方がいいのだろうか?
家々は点在しており、隣の家に行くだけでも数分かかる。どうしようかと悩んでいると、不意に玄関口から大きな声が響いた。
「お困り事はないですか?」
現れたのが峠だった。都会では、突然押しかけるような行動は奇異に思われるかもしれないが、田舎では普通のことなのだろう。
最初のコメントを投稿しよう!