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15. きれいな人
田山駅の近くに大きめのファミリーレストランがある。『ドイチュ』ってチェーン店。何でドイチュなのかはよくわからないけれど、ハンバーグは多い。
実はこの店はバムバムバーガーと同じ系列の会社がやっているらしい。こちらのマークはカニ太郎ではない。可愛い牛が草を食べているマークで、モーモーくん、と呼ぶのだそうだ。カニ太郎みたいな壮大な由来があるのかもしれないけれど、確認していないから知らない。
「兄貴の声、俺とほぼ同じらしいんだよね。お互い電話でしょっちゅう間違えられるよ」
「うん、ほぼ同じだった。田村くんかと思って、話し始めそうになったよ」
「でもさ、違う人間だから、どこかしら雰囲気違うだろ?」
「全然、違う。うん」
田村くんは今日、私の顔を見た瞬間に、輝くような笑顔を見せてくれた。私の白い歯が眩しいって言ってた。私も素直に嬉しかった。
ハンバーグやステーキの鉄板って、どうして牛の形に掘ってあるんだろう。今日は矯正が終わった記念に、私が田村くんにおごることにしていた。昔のいろんなバイト代がまだまだ残っているので、それくらいの残金はあった。
二人ともこのレストランの看板メニューである鉄板焼きデミグラスハンバーグステーキをオーダーした。だから私たち二人の間には、二匹の黒い牛がいる。触ると熱いから触ったらいけない牛だ。
「お兄さんに、どちらのハヤサカさんですか、って言われたの」
「ああ、うん」
「それから、ああー、義仁のガールフレンドねー、みたいなことも言われたの」
「そうか、そんな言い方しなくていいよな。まあ事実だけど」
「なんか……声は田村くんと同じなのに、違う印象だった……」
何を変なこと言ってるんだろ、私。田村くんのお兄さんだよ。八歳上の。血の繋がってるお兄さん。これじゃ悪口言ってるみたいじゃん。
「ごっごめん。変なこと言って。何でもないよ」
私がハンバーグを再び食べ始めると、田村くんは少しため息をついた。どうしよう、呆れられちゃった。
「兄貴ね、あいつちょっと嫌な奴なんだ。あまりはやっちに会わせたくない家族なんだよね」
「え、なんで?」
「んー……なんていうか、どこかしら嫌味で。少し女癖も悪いしね。もうこのままアメリカから帰るなよって思うんだよな」
そうだったのか。私が抱いた印象、そんなに間違ってなかったのかな。いつまで日本にいるのかな、もうアメリカに帰るのだろうか。
「向こうで仕事もあるし、明後日には帰るって言ってるけど、ほんとかなあって思うんだよな。兄弟ながら、どうにも信用してないところあるんだ」
「お兄さん、結婚はしてないの?」
「したくないっていつも言うよ。束縛されるのが嫌なんだって。決まった女性を選ぶのが嫌なだけだろうな、多分。フラフラしてたいんだよ」
「お仕事なにしてるんだろ」
「音楽関係? 誰かのバックバンドやったりするって言ってたけど、俺はよく知らない」
お兄さんのことを話す田村くんは、今まで見たことのない表情をしていた。苦虫を噛み潰したようなって、こういうことを指すのかもしれない。全身から「兄貴は迷惑だ」というオーラが出ている。
私にはきょうだいがいないから、よくわからない。でももしも自分のきょうだいが嫌味な人だったり、女癖や男癖が悪かったりしたら、それはそれで複雑な気持ちになるかなあ。
「ごめんね、私ったら、お兄さんの悪口みたいなこと言って。ごめん」
「いいよそんなの。それより俺が電話に出なくてごめんな。実はあの時、トイレから出てきて手ぇ洗ってるところでさ」
「やだもう、なにそれー」
空気が柔らかくなる。少し、ホッとした。私たちはまた、いろんな話をした。矯正が何年も痛かったこととか、卒業式の服を選ぶのに苦労したこととか、仕事しながらまだ矯正の診察があることとか。
デザートを食べて笑っていたら、ふと、テーブルの前に人影ができた。え、誰? 知り合い?
「兄貴……なんでここにいるんだよ」
「え、お兄さん? え?」
見上げると、とても、とてもきれいな男の人が立っていた。え、この人きれい。肌が白くて、とてもきれい。田村くんのお兄さん? なの? 本当に? 全然似てない。
「義仁、デート中?」
「そうだよ、離れろよ。こっちに来んな」
「君がハヤサカさん?」
「は、はい」
「俺、さっき電話で話したこいつの兄貴。デート中なら、おごってあげるよ。まだ学生だもんね」
田村くんと同じだけど違う声。スマートな手つきで一万円札を出して、伝票立てにぽいと差し込む。
「おい」
「あの、困ります、あの」
「君、凄く可愛いね。きれいな髪」
長い指が伸びてきて、するりと耳たぶのそばの髪を撫でられた。指が、耳に触った。身体が瞬時に固くなる。今、何されたの? 私、何されたの?
「……兄貴っ! ふざけんなよ」
「じゃあな。仲よくしろよ」
お兄さんは流れるような身のこなしで店を出て行った。私の視野は、それをぼんやりととらえていた。身体がガタガタと震える。田村くん以外の人に、触られた。信じられない。逃げられなかった自分が信じられない。
「……ごめん、はやっち。この金は俺が兄貴に突っ返しとく。はやっち、ごめんな。こんなところにいるとは思わなかったよ、あいつが」
私は微かに頷いたと思う。でも、声が出なかった。今、自分の身に起こったことが一体何事なのかと、混乱する頭でクルクルと考えていた。考えても何も出てこなかった。
「はやっち」
「……うん」
「はやっち、大丈夫? じゃないよな」
「うん……」
「ごめんな、嫌な思いさせて。この店、出よう。とにかくはやっちの家の方に向かおう」
「や、やだよ、せっかく会えたのに……」
「じゃあ、はやっちんちのそばのバムバム行こうか。そこなら兄貴はいないから」
私は何だか恐ろしくて、ずっと田村くんのコートの端っこを掴んでいた。私がご馳走しようと思ってたのに、田村くんが会計してくれる。田村くんの腕にぎゅっと手を回して、歩いて電車に乗って。私は田村くんから、離れることはできなかった。
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