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1. 歯列矯正
目の前の光が眩しい。目がくらむ。ここに来ると宿命のように目がチカチカする。
「早坂さん、何年生まれだったっけ」
「おおあおんおおおうおんおう」
言えるわけない。
「ああ、ごめんごめん。はい、何年だっけ」
「昭和四十六年です」
ああ、よだれが垂れる。
「ははあ、万博の次の年だね」
それはもう聞き飽きた。
「よく言われます」
「はい、お口開けて」
ここは歯医者だ。虫歯を治す歯医者ではない。歯並びを正しくする矯正歯科医院だ。もしも虫歯が見つかったら速やかに治療してもらうために、一般の歯医者へ行くように厳しく指示されるのだ。
かく言う私も去年、小さな虫歯が見つかった。すぐ隣のビルに入る歯医者へ行けと言われ、大人しく行った。行ったのはいいのだが、「せっかく矯正してる最中なのに虫歯なんか作って!」と叱られた。もう大学生だというのに、無理やり手鏡と子ども用歯ブラシを持たされて、ブラッシングの練習をさせられる屈辱を味わうこととなった。子どもじゃないのに。今はもう二十二歳になるのに。
歯の矯正はあまり簡単なことではない。まずは何本も健康な歯を抜いた。私が抜いたのは合計八本。問題のない歯を八本。犬歯の一つ奥の歯と、親知らずを四本ずつ。親知らずのうち二本はまだ生えていなかったので、その場で切って引っこ抜く、つまりは手術を行なった。そして歯と歯の隙間の空白を、歯にくくりつけた針金のようなものでギリギリと締め付ける。
言いたかないけど、とっても痛い。物凄く痛い。死ぬほど痛い。締めつけた直後の数日間は、まともに食事もできない。せいぜいお粥を食べられる程度だ。そして痛くて眠れない。歯列矯正は拷問なのだ。
「僕は昭和十年生まれだから、もう年だなあ」
主治医は私の歯のワイヤーをギリギリと締めつけながら、過去のことに呑気そうに思いを馳せる表情を見せた。
「ああいのああおおあい」
「ん? お母さん? 僕と同じ?」
「あい」
口を開けっぱなしでまともには喋れないが、言いたいことは伝わったらしい。
「そうだったのか、早坂さんのお母さん若く見えるなあ。あなたは大人っぽいのにねえ」
「おおえうあ」
「そうそう」
これもよく言われる。大人っぽい。
なぜかはわからないが、中学生の頃に二十四歳かと言われたことがある。まだ十五歳だったのに。着ていた服がいけなかったのかもしれない。黒のタイトスカートにパンプスだったし、ピンクのリップをつけてたし。場所も悪かったのかもしれない。年に二回開催されるマンガの祭典コミックパーティー、通称『コミパ』の道すがらだったから。コミパのことはどうでもいいんだけど。もう行かないけど。卒業したから。
とにかく老けて見えるらしい。中学生の頃に二十代に見えていた私だ。ほぼ二十二歳の今はいくつに見えるのやら想像もつかない。
「はい、うがいしてね」
「あい」
直径三十センチあるかないかのスペースに、ぶくぶくぺっと何度か水を吐く。毎月この歯医者に来ると、ワイヤーの締め直しをされるのだ。今も上と下のワイヤーをギリギリに締めつけて、歯が浮いたような妙な感覚がある。今夜からしばらくは地獄だ。この地獄沙汰を数年間耐え抜けば、見事な歯並びが入手できる。そして金もかかる。親の金だけど。歯列矯正を私に強制したのも親だけど。
私は別に歯並びなんか悪くてもいい。だが両親はそれを許さなかった。かなり見栄えの悪い歯並びだったので、健康によくないと大枚を叩いてくれた。いくらくらいかかるのか、正確な額は知らない。別に返せと言われないだろうから構わない。
「私、そんなに老けて見えますかね」
大して好きでもない花柄のハンカチで口周りを拭いながら、私は主治医の松木先生に聞いてしまった。
「いやいや老けてなんかいないよ。大人っぽいってだけじゃないの」
「そうですかね」
「そうだよ、学生さんというよりOLさんみたいってことだよ」
「何歳くらいのOLさんに見えるんですかね」
「二十五とか二十六とかかなあ」
もうすぐ二十二歳とそんなに変わらないじゃないかと思いつつ、絞められて痛い歯に冷や汗をかく。今夜なに食べようか。お粥? カップスープ?
「ワイヤーが当たるところはない?」
「んんん、んー、ありません」
「じゃあ今日はこれでおしまいだからね。向こうで待っててね」
「ありがとうございましたー」
「ああ、早坂さん、あなたもうすぐ矯正終わるよ。来月か再来月か」
マジか。自分の細い目が丸くなる気がする。
「ほんとですか。三月のはじめが卒業式なんですけど!」
「いけるいける。がんばりましょう」
「お願いします!」
ああ、歯が痛い。歯、そのものは痛くない。締めつけられた歯の間が痛い。あごを掴むように手で包みながら、ようやくこの地獄から解放される日が近づいてきたことを心の底から喜ぶ。この痛みも、食べた直後の歯磨きルールも、毎月の歯医者通いも、何もかもだ。何もかも解放だ。始めたら最後、完成するまで逃れられない恐怖の大王、歯列矯正。この悪魔のような日々とさよならできるのか。今すぐに彼氏に伝えたい。そんなものはいない。
待合室の黄色い派手なソファに腰かけて、先ほど、呼ばれる前まで読んでいた少女マンガ雑誌をそっと眺める。毎回楽しみにしていた立野洋子の連載『楽しい! 男女交際』。読めなくなるのは寂しいが、お前に会うのもあと数回か。ヒロインの恋の行方が気になるので、今後はどこかの本屋で立ち読みしよう。
「早坂さーん、お待たせしました」
「はいっ」
いつもお世話になっている歯科衛生士のお姉さん。私と同い年の。この人とも会わなくなるのか。寂しいが、それでもいい。
「いつもと同じく一万円になります」
「はい、当たり前ですが、ぴったりです」
「はい、こちら領収書です。もうすぐ終わりですね」
「そうみたいです! 三月の卒業式に間に合うみたいだし、嬉しいです!」
領収書をバッグにしまいながら、にやにやとしてしまう。
「ワイヤー取れても、ちゃんと通ってくださいよ」
「え、やだ、なんで?」
「やだじゃないー! その後はマウスピースみたいなもの入れるんですよ!」
「なんですかそれ、やだ」
「やだじゃないー! 歯列矯正は締めつけて終わりじゃなくてね、その後はまた歯が動いちゃわないようにマウスピース入れるんですよ」
「ええー。終わると思ったのに」
「まだ数年間はかかるかも、かなあ」
がっかりだ。浮かれていたら突き落とされた。せっかくここともお別れだと思ったのに。あばよって、言いたかった。
「まあ、まだ早坂さんの好きな『楽しい! 男女交際』もまだやってますからね。せめてそれを楽しみにして来てくださいね」
「ああー、現実は楽しくない交際」
「そんなこと言わずに」
私と同じくらいの期間ここで働いているはずの彼女は、気持ちはわかるが諦めろ、といった表情で笑っていた。
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