10. ケンカ

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10. ケンカ

 私は田村くんと電話することが増えた。手紙も書くようになった。二人ともポケベルが使えなかった(やり方がわからなかったし持ってなかった)ので、クラシックに手紙を書いた。年賀状も書いた。私は久しぶりにマンガ用のGペンやインクを出してきて、干支のニワトリを描いた。矢印をつけて『うこっけいです』と書くのを忘れなかった。  田村くんからはとてもきれいな字の年賀状が届いた。彼、こんな字を書くのか。男の子はみんな字が下手だと思い込んでいたけれど、それは完全なる認識違いだった。その後聞いてみたら、書道何段みたいなことを言っていた。自分の下手な字が恥ずかしい。だから私は本屋でペン字のテキストを買ってきて、字の練習まで始めてしまった。 「明日香、最近よく田村くんって人から電話があるのね」  母に指摘されると、少し後ろめたいような。でも悪いことはしてないよね? 別に禁止事項じゃないよね? 「うん。同じ学年の田村義仁くん。クリスマスにデートした人だよ」 「おつきあいしてるの? 人助けじゃなかったの?」 「最初は人助けだったけど……いいじゃん、別に」 「いいわよ、別に。でもおつきあいしてるなら、ちゃんとそう言いなさいよ」 「なんで?」 「悪いことしてるわけじゃないなら、言えるでしょ」  正月明けの昼ごはんの後。皿洗いをガシャガシャしながら、私は何とも気分のよくない感覚に陥った。何でそんなに棘があるの? お母さん、私が男の子とつきあうの嫌なのかな。 「田村くんとはおつきあいしてるよ。ちゃんとした人だよ。クリスマスに田村くんのお家にもお邪魔してご挨拶もした」 「お家に? なんでそんな大事なこと黙ってたの?」 「そんな……まだそんなこと言えるような長いおつきあいじゃないし」 「でもご両親様にご挨拶したんでしょ?」 「それは、ちょっと事情があって、急にそういう予定になっちゃって」 「明日香、お皿はいいから、ちょっとここに座りんなさい」  いつになく厳しい母の様子にとても悲しい気分になる。嫌がられるようなこと、私してない。お湯を止めて濡れた手を拭いて、食卓の定席に座った。 「ちょっと事情があってって言ったわね。どういう事情なの?」 「それは……田村くん自身の事情だから、私が勝手なことは言えない。必要なら、田村くんに聞いてから話す」 「田村くんって人はどんな人? どういったお家の息子さんなの?」 「立派なお家だったよ。何代も続く旧家のお家で、ご両親様も凄くいい人たちだった。お父さんは大蔵省に勤めてて、お母さんは幼稚園の園長先生」 「そう、しっかりしたお家のお子さんなのね」 「田村くんもいい人だよ。四月からお父さんと同じ大蔵省だって」 「優秀な人なのね。お母さん、安心したわ。お父さんが帰ってきたら、話しておきますからね」  尋問されるみたいで、嫌な感じ。田村くんの家ではみんなあんなに朗らかだったのに。 「……おつきあいしたら、だめなの?」 「そんなこと言ってないでしょ。でもどんな人かは大事だと思うわよ、お母さんは。明日香はうちの大切な一人娘なんだから」 「大丈夫だよ、田村くんは紳士だもん」 「紳士が夜の十一時過ぎまで明日香を帰さないのはおかしくない? あの日は遅かったわよね」 「学園祭とかあったら、朝まで帰らなかったじゃん、私」 「学園祭と一対一の男女とでは話が違うでしょ」  私はムカムカして立ち上がった。もう一秒たりとも、母と話していたくはなかった。 「明日香、話の途中ですよ」 「お皿洗いが終わったら散歩してくる」 「どこに行くの」 「散歩って言ったでしょ。冬休みだし昼間だから出かけたっていいじゃん!」  急いで皿洗いを済ませて、普段着にコートで、どうでもいいバッグに財布を突っ込んで、スニーカーを履いて飛び出した。家に母と二人きりでいたくなかった。走っていたら、涙が出てきた。母とケンカするなんて、初めてのことだった。  無性に田村くんの声が聞きたかった。電話ボックスを探す。いらないときはいくつもあるのに、ほしいときはないもの、それが電話ボックス。  重い扉を開けて狭いボックスの中に入り、テレホンカードを入れて、もう覚えてしまった番号を押した。コール音は三回。 「はい、もしもし」 「田村さんのお宅ですか?」 「左様でございます」 「あの、早坂明日香ですが……義仁さんは……」 「これは早坂さま、私は先日お目にかかりました、いつ子でございます。義仁坊ちゃますぐにお呼びいたしますから、少しお待ちくださいませ」  いつ子さんだったのか。普段はお母さんが出るから。そうか、お母さんお仕事かな。いや、まだお正月休みだよね。お出かけかな。 「はやっちー、あけましておめでとうー」 「田村くん……」 「ん? 声が元気じゃない? どうかした?」 「……あの、あのさ、たむ……」  涙が出てきて止まらない。電話ボックスの中は日差しがたっぷりで暑いくらいだった。私は泣きながら電話した。 「どうしたんだよ、泣いてんの?」 「うっ、うっ、うん、うっ」 「今どこ? すぐに行くよ。どこ?」 「うっ、うちの、そば、駅前っ」 「はやっちんちの最寄駅? どこか入る店とかあったら入って待ってろ。店とかある?」 「うっ、うっ、バムバムがっ」 「あー、青葉町駅だっけ? バムバムバーガーの青葉町駅前ってことね?」 「うん、うっ」 「いいか? そのバムバムに入れよ? そっから動くなよ? すぐに行くからな」 「うっ、あい」 「よし。じゃあ切るから。必ず行くから待ってろ」  ぶつっと電話が切れてツーツーという音が鳴ると、私は受話器を銀色の取っ手みたいなところに引っかけて電話を切った。テレホンカードがシューっと出てくる。ボックスの中からはバムバムバーガーの看板が見えている。よくわかんないカニみたいなマークの看板。なんでカニなんだろ。変なの。  電話ボックスを出て、正月の明るい日差しの中を横断歩道を渡った。渡ってすぐにバムバムバーガーの青葉町駅前店がある。正月明けでも店は元気に営業している。  自動ドアをくぐると、「いらっしゃいませ!」とやっぱり元気な声が頭に響いた。 「……えーと……ミルクシェイクMでください」 「ご一緒にフライドポテトなどはいかがですか?」 「いえ、いいです……」 「お会計180円になります」  長方形のお盆の上にはいろんな宣伝が書いてある紙。その上に冷えたミルクシェイクがドンと置かれる。 「紙ナプキンなどはそちらからお取りください!」  わかってる。どこのお店でもそう言われる。よれよれと紙ナプキンを取りに行ってから、私はふと、もう一度レジに戻った。お姉さんが無料の笑顔をくれる。 「あの……」 「はい!」 「バムバムって、なんでカニのマークなんですか?」 「カニ太郎のことですね。バムバムバーガーの創業者が考えました。日本人の好きな洋食メニューの一つがカニクリームコロッケだから、いつかはカニクリームコロッケバーガーが作れるようにという壮大な目標を掲げて、カニ太郎のマークを考えました。もしもカニクリームコロッケバーガーが皆様の日常になっても、いつもカニ太郎が見守ってくれるというお守りでもあります!」 「……そう、だったんですか……ありがとうございます」 「ご利用ありがとうございます!」  こいつ、『カニ太郎』っていうのか。ハンバーガーにカニって、変なの。でも、どこかしら、可愛いや。
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