14. ハヤサカさん

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14. ハヤサカさん

 田村くんも私ももうバイトはしていなかった。それでもお互いの都合がうまくつかないうちに卒業式間近となり、私の歯の矯正器具がついに外れてしまった。数年ぶりの真っ白な歯。しかもきれいに並んでいる。 「……ついに終わった……!」 「はい、よくがんばりました」 「先生、ありがとうございます! お世話になりました!」 「まだマウスピースあるからね」 「いいですそんなの! 卒業式に真っ白な歯が間に合いましたー!」  手鏡に自分の歯を映して見ながら、私は自分自身の健闘を讃えた(心の中で)。だってこれ、四年間くらいかかったんだから。十八歳くらいから始めるのが最もよろしいって先生に言われて、両親が勝手に決断したんだから。まあ私も頷いたけど。やるの私だから。  その場で歯を撮影し、印象で型取りし、マウスピースの元を作る。一ヶ月後、つまり四月には新しいマウスピースが完成しているはずだ。  待合室で財布を出して待機していると、いつもの歯科衛生士さんが呼んでくれた。 「一万円になります。ついに終わりましたね!」 「はい! 一万円お願いします! ほんとに長い道のりでしたー」 「よかったですね! それで来月からはここで働くんですよね?」 「そうなんです。何も知らないから、どうかいろいろ教えてください。よろしくお願いします!」 「難しいことはないから大丈夫ですよ。ここ、マンガの雑誌たくさんあるし、昼休みとかたくさん読めますよー。はい、領収書です」  そこへ松木先生がひょいとやってきた。四月からのことらしい。 「早坂さんね、四月は一日から来てくれる? 朝は必ず九時に来て。お掃除をして、十時から開けるからね。始まるのが十時ってのはあなた知ってるね、患者さんだから。あと、あなたの診察は勤務時間内にやるからね」 「はい、毎日九時に来ます。よろしくお願いします」 「わからないことは僕とかこちらの佐野さんに聞いて。心配しなくていいからね。じゃあ、よろしく」 「はい、ありがとうございます」  この歯科衛生士さん、佐野さんっていうのか。知らなかった。名札つけてないからな。 「楽しみましょうね! あ、来月から始まるマウスピース、最初はキツく感じるかも」 「え、痛いんですか?」 「痛いっていうかね、どうしても歯並びって動くんですよ。今、器具を取ってるでしょ? 来月までにちょっと動くから、来月カチッてマウスピースはめるとキツいって感じますよ、多分」 「やだなー」 「ワイヤーよりも楽だから大丈夫!」  佐野さんによくよく挨拶して、歯医者を出る。今日はお雛祭りか。あと数日で卒業式だ。大学の入学祝いにお父さんからもらった腕時計を見る。夕方の四時半だった。この時計も革ベルトが傷んできたな。  歯医者のあるビルから出ると、すぐに電話ボックスが目に入った。夜じゃないけど、田村くんいるかな。  ボックスによいしょと入ると、風から守られてあったかい。田村くんに電話するときはボックスに入りたくなる。抱きしめられるみたいに、あったかいから。  テレホンカードは五十の位置にパンチされている。まだまだ話せる。 「はい、もしもし?」  この声は田村くんだ。でも念のため、ちゃんと名乗らなきゃ。 「あ、早坂です。田村くん……」 「え、どちらのハヤサカさん?」  あれ? なに? 田村くんじゃなかった? でもこの声、田村くんだよね? 「あの、早坂明日香です。清藤(せいどう)大学で一緒の」 「ああ、義仁のガールフレンドだっけ」 「え? あの」 「俺、あいつの兄貴です。和仁。ちょっと待ってね、義仁呼んでくるから」  お兄さんがアメリカから帰ってたのか。お正月しかいないって言ってなかったっけ? 何だか同じ声だからびっくりした。でも、でもなんか、違う。田村くんとは違う。同じ声なのに何もかも違う感じがする。  電話の向こうでゴソゴソと何かが聞こえる。田村くんの声かな。あっち行けよとか聞こえる気がする。 「はやっち? ごめん、兄貴が出ちゃった」 「お兄さんなんだね、帰ってるの?」 「うん、まあ、ちょっとね。大丈夫? なんかあった?」 「ううん、同じ声だから、びっくりして。ごめんね、いきなり電話して」 「いいよそんなの。俺だっていつもいきなり電話してるだろ。はやっち、今どこにいるの?」 「あ……三芳駅のそば。歯医者終わってさ」 「矯正? もしかして終わった?」 「終わったよ、取れたよ。だから電話しちゃった」 「じゃあさ、田山駅まで来れる? そしたらすぐ待ち合わせできそう」 「行く行く。今からすぐに向かうね」 「田山の北口にコーヒーの『エール』あるじゃん。あそこで待ち合わせしよう。ちょっと待たせるけど、晩飯でも食おう。あ、ちゃんと家には電話しとけよ」 「わかってるって」  この電話ボックスから三芳駅までは歩いて二分。そこから電車に乗って、田山駅まではだいたい十二分程度。田村くんのお家から出てくることを考えると、『エール』でコーヒー飲みながら本でも読んで、十五分くらい待てば会えるかな。  私はボックスの中で自宅に電話をかけて、田村くんと夕ごはんを食べてくると伝えておいた。  ボックスを出ると、スッと北風が舞ってくる。とても寒かった。  駅へ向かう間、電車に乗っている間、そして『エール』でホットコーヒーを飲む間も、私の耳には田村くんのお兄さんの声が残って、ずっと響いていた。どちらのハヤサカさん、ああ義仁のガールフレンド、そんな声がぐるぐる回る。何でだろう。何も嫌なこと言われてないのに、どうしてこんなにぐるぐる回るんだろう。  窓枠がガタガタ鳴った。外を歩く人はみんな寒そうに前屈みで進んでいる。コートの前をぎゅっと握って、足早にトコトコと歩いている。腕時計を見ると、もうすぐ五時半になりそうだった。空は既に暗い。曇っているのか、星は見えない。  田村くん、早く来ないかな。本物の田村くんの声が聞きたいよ。ハヤサカさんなんて呼ばないで、はやっちって呼んでほしいよ。
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