16. 卒業

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16. 卒業

 バムバムバーガー青葉町駅前店で、私たちは話した。私たちはというよりも、田村くんが私を慰めてくれた。そして何度も謝ってくれた。田村くんが悪いわけじゃないのに、何度も謝ってくれた。  田村くんのお兄さんは、多分「悪い人」だ。私にとって、あまりよくない人なんだと思う。あの人に触られたのはやっぱり許せないし、気分が悪くなる。いつまでも田村くんと一緒にいたかったけれど、一方では早く髪を洗い清めて静かに眠りたいという気持ちもあった。 「もうこんな時間か……バムバムもさすがに閉店か」 「そうだね、私も帰らないとまた叱られるかなあ」 「うん、はやっちのお父さんもお母さんも心配するよな」  バムバムの閉店の音楽は昔風に「蛍の光」だ。その「蛍の光」が流れ始めた。もう閉店なんだ。ということは、夜の九時。 「はやっち、送っていくけど……大丈夫? 心配だよ。本当にごめん。嫌な思いさせて」 「いいよ、大丈夫。田村くんは悪くないよ。私がちょっと神経質になっちゃっただけで」 「次に会うの卒業式だけど、あ、あと五日くらいか、元気な顔、見せてくれる?」 「もちろん、大丈夫」  がんばって笑ってみせる。笑えてたかな。いつまでも強張った顔してたくない。  田村くんは私を心配そうに眺めて、「ああー」と声を上げた。 「こんなときに、はやっちと既に結婚してたらって思う」 「け、結婚?」  何を言い出すの。 「結婚してれば、同じ家でずーっと一緒にいられるじゃんか。守ってあげられるじゃんか」 「……うん……ありがと」 「ずーっと抱きしめてあげられるじゃんか。俺、はやっちよりも年上で、とっくに稼ぎがあればよかった。力があればよかった」 「そしたら同級生として出会えないじゃん」  ほーたーるのーひーかーぁり、まーどーのーゆーぅーきー。音楽が大きくなる。早く出て行けと店が焦ってる。私たちも諦めて立ち上がった。四角いお盆を持ってゴミ入れに向かう。燃えるゴミ、燃えないゴミに分けて捨てる。  自動ドアをくぐったら、凄い北風だった。ぶるりと震えがくる。田村くんがしっかり肩を抱いていてくれた。  北風の中をうちのマンションまで帰り、彼は玄関まで送ってくれた。 「ただいまー」 「あの、こんばんは。今夜も遅くなってしまって申し訳ありませんでした」 「あら田村さん、今日も送ってくださったのね。遅いから心配してたんですよ」 「遅いのに一人で帰らせるなんてできません。ちゃんとこうして一緒にいました」  お母さんは田村くんが気に入っているみたい。だから私を送ってくれるのも嬉しいみたい。私も嬉しい。 「寒いでしょう? ちょっとお入りになってお茶でもいかが?」 「いえ、もう遅いので失礼します。明日香さん、寒くて冷えてしまったから心配です」 「大丈夫、風邪ひかないようにあったかくするよ」 「もうすぐ卒業式ですからね、明日香、ちゃんと早寝しなさいよ」  田村くんは「では、今日はこれで」と言って、帰って行った。家の中はとても暖かかった。ホッとする。 「明日香、どこでご飯にしてたの?」  お母さんがあったかいココアをいれてくれた。助かる。寒かったから。 「田山駅前の『ドイチュ』でハンバーグだよ」 「ああ、あの店ね。ハンバーグ、美味しいわよね」 「歯の矯正の機械が外れたからさ、ほら」  いーっと歯を見せてストレスがなくなったことをアピールした。それにしても歯はさっぱりした。気持ちがいいし、痛くない。 「それが見せたくて田村さんに会いに行ったの?」 「うん」 「卒業式にも間に合ったし、よかったわね」 「ほんとに。もう一回、卒業式のワンピースの試着しなくていいかな」 「明日にでも着てみたら? お直しするところもないでしょ、きっと」 「うん」 「さっさとお風呂入って寝なさい。疲れた顔してるわよ」 「はーい」  私はとにかく、一生懸命シャンプーした。三回シャンプーした。特に触られたところをゴシゴシと洗った。耳が痛くなるほど洗った。湯船に長いこと浸かって、身体を芯からあっためた。このあったかいお湯が田村くんの気持ちだと思いながら、身体をあっためた。そうしないと、心の隙間から冷たい風が吹き込んできて、私を冷やしてしまう気がしたから。  卒業式の朝は快晴のいい空だった。まさにピーカン。天気よくて、本当にありがたかった。みんな一張羅を着てきて、ガウン着て、角帽かぶって、最後はその角帽を空に放り投げる儀式があるんだから。雨降ってたら、様にならない。  学校の卒業生の控え室は大教室になった。みんながそこに集まると、三々五々、自然に集まりができる。私はワンピースのあっこちゃんと袴姿のりなちゃん、同じく袴姿のなみえちゃんと何となく一緒に行動していた。  ちらりと周囲を眺めると、少ない男子学生たちの中に、田村くんがいた。既にガウンを着て角帽をかぶっている。かっこいい。相変わらず地味だけど。  私たちがつきあっていることは、誰にも話していない。秘密のまま、卒業することになりそう。 「はやっちのワンピース、すっごく可愛いね。どこで買ったの?」  なみえちゃんが目をキラキラさせて訊ねてくる。ちょっと嬉しい。 「デパートのね、フォーマルドレスの売り場。絶対いいのないって決め込んで覗いたら、意外とこういう卒業式向けって感じのものあったんだ」 「いいセンス! これから友だちの結婚式とかあったら使えそう!」 「あ、それいい! いけるね」  あっこちゃんやりなちゃんも同意してくれる。私もみんなの服装を一通り褒めて、みんなでお互いを褒めあって、気分よく準備をした。  視線を感じる。きっと田村くんが私を見てる。そっと目線を送ると、やっぱり目が合った。口元だけひっそりと笑って、また目を逸らした。いいな、なんか。いいな、こういうの。  卒業式は滞りなく終わった。無事に卒業証書もゲットした。最後に記念撮影をして、みんなでせーの、と角帽を空へ向かって放り投げる。先輩たち代々、これをやってきた。一体いつからこの風習が根づいたんだろうか。どこかの映画の影響?  二次会、三次会と進むにつれて、みんなの声が大きくなる。みんな、お酒飲み過ぎ。私はお酒は好きじゃない。困ったなと思っていたら、トイレからの帰り際に廊下で田村くんに手首を掴まれた。 「こっそりコート持ってきて。このまま逃げちゃおうよ」 「えっ、バレない?」 「酔っ払いだらけでバレるかよ、大丈夫」 「田村くん、飲んでるの?」 「シラフだよ」 「私も」  私たちは抜け出した。スーツとワンピースにコートとバッグを持って、タカタカ走った。パンプスの足元が軽い。  空には月が浮かんでいた。この日だけは、未来が明るいような気がしてた。もちろん、明るかったんだけど。明るいけど、人生って山あり谷ありのはずよね。  これから、どんなことがあるのかな。このままでいたいな、今は。
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