18. 昼休みのこと

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18. 昼休みのこと

 暑かった夏が終わり、急激に風が冷たくなった。ある朝起きて窓を開けたら、もう半袖では外を歩くことはできないと悟った。寒くなるのって、何でこうも突然なんだろうか。 「そういうの『びったりおどし』って言うのよ」 「びったりおどし? 何それ」 「こまめに衣類の整理をしてない人に対して言う悪口。福岡のおばあちゃんがよく言ってたわ。びったりおどしが来る前に、ちゃんと冬物を出しておけって意味よ」  何とかして今日の仕事に着られる物を探しながら、意外とそれがないってことに気づかされる。今までが暑かったから、何一つ用意していなかったのだ。  私はタンスの奥から春や秋に着られる厚手のカーディガンを引っ張り出し、Tシャツとジーンズ、お父さんに買ってもらったブランド物のショールを合わせた。とりあえず、寒さはしのげる。職場では服装は自由だ。だって制服があるから。制服あってよかった。  歯医者の中は凄くあったかかったから、制服に普段から置いてある薄手のカーディガンでちょうどよかった。ただし昼休みは別だ。今日も先生のお昼を買いに行かなきゃ。 「先生はいつもの助六寿司ですか?」 「んー、今日はかんぴょう巻きといなりのセットで。メロンパンもつけて。はい、お金」 「はーい、行ってきます」  外は寒いはず。着てきた厚手のカーディガンをはおって、ショールを首に巻く。面倒だから、白いサンダルのままでいいや。今日はタイツも履いてるし。  大通りに出てすぐにお寿司屋さんがあるから、まずそこでお寿司を買う。三軒向こうのコンビニへ行って、メロンパンを買った。急いでコンビニを出て歯医者に帰ろうとしたら、出会い頭に男の人の肩にぶつかった。痛くはないし向こうも痛くないと思うけど、慌てて頭を下げ「すみません」と言ったら。 「痛かったよ」 「ご、ごめんなさ……」 「これはこれは、ハヤサカさん」  あの、凄くきれいな男の人。田村くんのお兄さんだった。どうしてこんなところに? ざっくりと大きめの深緑のセーター。そして細いジーンズ。カジュアルなのに、凄く美しかった。 「凄い偶然だ。久しぶりだね」 「……はい……ぶつかってごめんなさい、あの、仕事中ですので」 「待ってよ」  歯医者へ戻ろうと後ろを向いた途端、肩をぐっと掴まれた。強い、力。 「今日も可愛いね。本当にいい髪だよ。日本の女の子って、どうしてみんなその髪型なの?」  私の長い髪を、一房そっと手に包み、「つやがあってきれいだ」とつぶやく。髪なんか、触られてる、私。何なの。どうしてこの人に会うと、身動き取れなくなるの。大体どうしてここにいるの? アメリカにいるんじゃなかったの? 「あ、あの、もう職場に帰らないと」 「白衣着てんね。病院? この辺のクリニック?」 「は……離してください……」  蛇ににらまれた蛙、みたい。動けない。怖い。この人、きれいすぎて怖い。  髪に触れていた手がふわりと消えたかと思ったら、その手は私の後頭部に回った。瞬く間にきれいな顔が近づいてきて、キスをされた。何が起こってるの。これは一体なんなの。唇の間を縫って、舌が侵入してきた。私の舌が思い切りこの人の口の中に吸い込まれるような心地がした。頭と身体がバラバラだ。お寿司とメロンパンはどうしても道に落としちゃいけない。先生のお昼だもん。もう片方の手は財布の入ったミニバッグを握り込んでいた。自分の爪が手のひらに食い込む。痛い。吸われる舌も痛い。  ち、と音がして舌が解放された。彼の熱い舌がぺろりと私の唇を舐めた。私はずっと目を開けていた。目が乾燥して、まばたきもできない。 「へえ……君、美味しいんだね……どうしようかな、食べたいな」  感情が追いつかない。頭の中がぐちゃぐちゃ。どうすればいいの。 「またね。逃げても無駄だよ。迎えに行く」  彼はくるりと背を向けて、駅とは反対方向に歩いて去って行った。私は動くことができなかった。気がついたら、歯医者に戻ってきていて、お弁当を食べていた。先生はかんぴょう巻きを食べている。ということは、ちゃんとお金も返したんだろう。  午後の私は、ロボットだった。無感情で仕事をした。何も考えず、何も感じない。嬉しくもない、悲しくもない。喜びもなければ、悲しみもない。私は、田村くんのことを思い出さなかった。彼のお兄さんのことも、思い出さなかった。誰のことも、どうでもよかった。自分のことでさえも。もう、どうでもよかった。  翌朝、生理が来ていた。頭とお腹が痛くて、どうにもならなくて、電話をして休ませてもらった。お父さんは仕事へ行って、お母さんはお友だちとお食事に行った。私は痛みに耐えながら、あの大通りに近寄りたくないと感じていた。それなのになぜか、ひどく身体が火照って、性欲が強くなる気分がした。 「あのことのせいなんかじゃない」  あのこと。キスをされたこと。驚くほど巧みに舌を吸われたこと。田村くんだって私にそんなことをしたことはなかった。少し触れるだけの優しいキスしかしない。あんなこと、しない。  熱いため息が出る。胸の先がひどく敏感になる。経血ではない、別の水分が膣から出る感じがする。どうして? どうしてこんな風になっちゃうの? 私の身体が変なの?  うっかり指が下半身に伸びそうになったけれど、すんでのところで阻止した。こんなこと、してたまるか。今日の私はおかしいんだ。  私は痛みに疲れて、うとうとしていた。浅い睡眠の中で、夢を見た。なんだか嫌な夢で、淫らな夢だ。私の身体に蛇のようなものが絡まっている。蛇は私の身体中を愛撫する。嫌なのに、それはとても気持ちがよかった。凄く、嫌なのに。どうして。どうしてなの。 「あ……」  目が覚めると同時に身体は突き落とされる。息使いが激しい。まるでセックスしたみたい。やったことないのに。私まだ処女なのに。  涙が出た。自分のことが、嫌い。こんな私は、知らない。私は誰のことも、思い出さない。
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