2. 電話

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2. 電話

 紀元一九九二(1992)年。季節は冬だ。冬といえばクリスマスだ。クリスマスといえば、世の中の人は何を連想するのだろうか。プレゼント交換か。クリスマスソングか。それとも都心のプリンセスホテルでのクリスマス一泊デートか。 「クリスマスってキリスト教のお祭りでしょ? キリスト教って愛の宗教でしょ? だから僕らも愛し合うべきなんですよ!」  テレビの中でアホ面した男女のカップルがアホみたいなことを叫んでいる。まったくバカバカしい。心底バカバカしい。なあにが愛の宗教だ。キリスト教も仏教も神道も関係ない私には、愛すら関係ない。もちろん家に仏壇と神棚はない。お盆のこともよく知らない。これはちょっと珍しいと言われる。  通常の家庭ではお盆におじいちゃんおばあちゃんの家に行って、お盆の行事をしたりするらしい。我が家はそんなことはやったことはないし、じいさんもばあさんももう死んだ。したがって、ナスやキュウリに足をつける行事のことはまったくもって知らない。  一度ならず両親に、なぜお盆の行事をしないのか尋ねたことはあるが、二人ともお盆のことはどうでもいいし、祖先を大事にする感覚もないと言っていたので、その一人娘である私がお盆のことを知らないのは当然なのだなと思ったこともある。  じいさんやばあさんの葬式、法事には行ったことがある。当然だがお寺の坊さんに来てもらい、チーンポクポクウニャウニャやられて、謎のお焼香とやらもやった。やり方がよくわからなかったから母にひそひそと尋ねたら、他の人の真似しなさいと余計にわからないことを言われた。仕方ないので、変な匂いのする粉みたいなものを二回か三回つまんで鼻の辺りに持ってきて、またぱらぱらと戻した。あれでよかったのだろうか。  テレビではまだクリスマスのアホみたいな騒ぎを断続的に中継している。プリンセスホテルの外観、見飽きた。行ったことないけど、近いからもう何度も行った気分になる。 「明日香(あすか)まだ痛いの? ごはん食べないの?」 「毎月のことだけど痛いし。食べたいけど痛いから無理。すっと飲めるコンソメスープがいいの!」  母は私が矯正歯科へ行ってきても、必ず夕食を用意する。食べられないくらい痛いのだと何度言えばわかってくれるのだ。それももうすぐ終わるらしいから我慢するが。 「そういえばさあ、もうすぐ矯正の器具取れるみたい。卒業式には間に合うって先生言ってた」 「あら、よかったじゃないの! おめでたいわね」 「ほう、明日香もよくがんばったな。卒業式にはきれいな歯で行けるじゃないか」  テレビを見ながらハンバーグをパクパク食べていた父も言う。いいね、ハンバーグ食べられて。私、無理。あ、つけあわせのナスも食べた方がいいよ。考えてみたら、そもそも矯正のお金を出したのは父だった。お礼しておこう。 「ありがと、お父さん。おかげさまで終わりそうです」 「もう歯医者は行かなくていいのか?」 「それがさ、器具が取れた後もさ、数年は通ってマウスピースやるんだってさ」 「そうか、仕方ないが歯医者さんの言うことは聞きなさい」 「はあい」  この後は映画かドラマやるのかな。新聞のテレビ欄をばさばさ広げて見たが、いいなと思うものはなかった。この冬は特に追いかけているドラマはない。父は九時のニュースが見たいだろうから、私は歯を磨いてさっさと部屋に引っ込もう。痛いから。それに我が家は稼ぎ頭の父にチャンネル権があるのだ。 「歯、磨いて寝る。おやすみなさい」 「早いわね」 「どうせ痛くて眠れない」 「ちょっとは我慢しなさい」 「はいはい」  人の痛みも知らないで、我慢しろってことはないよな。ないよね。ないわ。歯を磨くために歯ブラシが当たるだけで激痛で唸っているというのに。数日で慣れるんだけどね。  いちいち痛い痛い言いながら歯を磨いていると、電話が鳴ったようだ。母から呼ばれたので、急いでうがいをしてリビングに戻った。 「男の子からよ」 「男ぉ?」  誰だ。そんな奇特な男は誰だ。私にかけてくる男なぞいない。彼氏もいなければ、気安く話す男もいない。そもそも大学には男がいない。いないわけではないが、人数が少ないのだ。バイトでもしていれば知り合いの男もいるだろうが、今はバイトはしていないし、電話の向こうが誰なのかおよそ想像がつかない。 「もしもし、明日香ですが?」 「あ、はやっち。ええと、田村(たむら)です」 「ああ、なんだ、田村くんか。どうしたの? いきなり電話だなんて、なんかあったの?」 「うんまあ。明日、はやっち学校に来る予定ある? 何もないかな」 「いや、明日は行く。卒論提出しなきゃ」 「卒論取ってるのか。俺は取ってないからな。もうできてるの?」 「できてる。完成してる。してなきゃ死ぬ。あとは教務課に出すだけ。卒論取って後悔した」 「ははは、それ何時頃?」 「午後イチくらいかな」 「じゃあさ、その後ちょっと食堂に来てくれないかな。用事はそこで」 「なんかわかんないけどいいよ。じゃあ一時半くらいに食堂行くわ」  電話を切ってから思う。  用事って、何の用事?  田村くんが? 私に? 用事?  何の?  お金貸せとか?  わからん。謎。  まあいいや。  私の頭の中は歯の痛みと卒論提出忘れちゃいけないってことしかなく、田村くん、それも学年で最も地味で目立たない田村義仁(たむらよしひと)くんのことではなかった。  結局、痛くてその夜は眠れなかった。
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