21. 口づけ

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21. 口づけ

 青葉町の通りを、手を繋いで歩く。あと少しでマンションに着いちゃう。うちでは両親が待っている。泣いた顔を見られないように、がんばって化粧直しはしてある。  道の途中に小さな公園がある。凄く小さな公園。誰もいないような、小さな公園が。 「田村くん、お願いがあるの」 「お願い?」  私は田村くんの手を引っ張り、公園の中に入る。シーソー、ジャングルジム、小さなベンチ。時計。その程度しかない。あとはたくさんの木々。街灯はたった一つ、背の高い灯り。  少しでも道行く人の目に入りにくいところを選ぶ。 「あの、ね……キスしてほしいの」 「……はやっち……」 「少しのキスじゃなくて、ちゃんとしたキスをしてほしいの。だめ?」 「全然だめじゃないけど……いいのか? そういうこと、今は嫌なんじゃないのか?」 「ううん、田村くんにしてほしいの」  田村くんは頷いて、そっと右手で私の顎を掴んだ。見慣れた顔が近くなる。ふとあの人を思い出して震えたけれど、私は逃げなかった。  唇が、触れる。あったかい、そして柔らかい。とても優しい。いつもの田村くんの唇。普段ならこの辺でおしまい。私は勇気を出して、唇を開いた。少しだけ、舌を出してみる。  こんなキス、初めてした。田村くんの舌が私の口の中で暴れる。口内がとてもあったかい。熱い。私は田村くんの首にぐっと腕を回した。田村くんも私の身体を強く抱きしめる。  湿度のある音が、口元から微かに聞こえる。どこかしら、恥ずかしい音。どうしてこれを「恥ずかしい」と思うんだろう、私は。それともみんなそうなの?  数分間、数十秒間が過ぎただろうか。田村くんの唇が離れた。ふっ、と吐息が漏れる。閉じていた瞼を、少し開いた。恥ずかしくて彼の顔が見られない。抱きついたままで私は彼の首元に顔を埋めた。 「……大丈夫? はやっち、嫌じゃなかった?」 「ううん、そんなことない、嬉しい。田村くんがいい」 「やばい、この先もしたくなる」 「……私も」 「はやっちも? そういうもの?」 「うん……ごめんね、変なこと言って」 「変じゃない、全然変じゃない」  田村くんは「きっとそれが自然なことなんだよ」と囁いて、もう一度私にキスをした。今度は優しい、いつものようなキス。 「もう遅いから。送って行くよ」 「……まだ一緒にいたいのに」 「俺だってそうだけどさ。もう十一時になるから」 「そう、だね……」  心のどこかで、あの人のキスと比べていた。全く違ってた。同じ兄弟なのに。田村くんのキスは優しくて、私を慈しんでくれる。とても、慕わしいもの。でも、あの人のキスは私を誘う嵐のような、逃げ場のないキスだった。全身がしっとりと濡れてしまう、まとわりついて逃れられないキス。  どちらがいいかなんて、考えたくない。私を愛してくれる人は田村くんだけだ。愛して、慈しんで、守ってくれて、ゆったりと包んでくれる。二人同時に恋に落ちた恋人同士だもの。そうよ、私にとっては田村くんが、絶対。 「実は、俺の兄貴……もう本格的に日本に帰ってきてるんだ」 「え、だからあの日」 「うん、多分。俺は知らねえけどさ、バンドかなんかやってる。どっかで一人暮らししてるから、家にはいないけど」 「そ、そうなんだね……」 「兄貴のことは会えたら殴っておく。正直そんなんじゃ済まないけど、俺が逮捕されるわけにはいかないし。はやっちとデートできなくなるからさ」 「じ、事件起こさないで」 「大丈夫大丈夫」  手を繋いで私のマンションまで向かいながら、言葉少なに、だけど大事なことを伝え合った。それは互いに互いが最も大切な相手であること。互いに、あなた以外は見えないし見ていないと伝え合った。  それでもどこかにあの人が隠れている気がして、ひやりと背中を撫ぜられる。出て行ってくれないのかしら。私の中に棲みつくつもりかしら。そんなのは嫌だ。絶対に嫌だ。何としても追い出してやる。もう二度と入れない。締め出してみせる。 「……怖い……」  思わず声に出てしまった。どうしよう。 「はやっち、大丈夫」  田村くんが私の手を強く握る。その手は大きくてあったかい。 「兄貴なんか、俺が追い出してやる。あんな奴のことは忘れろ」  頷くけれど、どうしてか思い浮かんでくるのは、あの顔。きれい過ぎて怖いくらいの、あの人の顔。ひどいことをされたはずなのに、なぜか私の中に巣食っているあの人の存在。巣食っているというよりも、実際にどんどんと蝕んでくるという感じ。じわじわと侵されていく。私の心の領土が少しずつ減っていく。何でなの? 嫌なのに。凄く嫌なのに。私は田村くんだけが好きなのに。邪魔しないで。  自宅まで送ってくれた田村くんは、「じゃあまたクリスマスイブにね」と言って帰った。そうだ、もうクリスマスまで会えない。それまでに、あの人と出会わないように気をつけなきゃ。どうやって気をつければいいのかわからないけれど、何とかして逃げなきゃ。あの卑劣な男からは、何としてでも逃げないと。私は引き裂かれて死んでしまう。 「ずいぶん遅かったのね。何かあったの?」 「え? ううん、待ち合わせが遅くなって」  母の声が胸に痛い。お母さん、私もう、処女じゃないんだって。思い出したくないことが、頭に浮かぶ。何でこんなこと、思い出すの。私、おかしいんじゃないの?  お風呂に浸かってぼんやりしていると、田村くんとキスしたことが浮かんでくる。幸せな瞬間。なのに、頭の中ではあの人のキスばかりだった。だめだよ、田村くんのことだけしか考えちゃだめなんだよ。頭を抱えてお湯の中に潜る。息を止めて、目を閉じて、ぼうとした水の音の中にいた。このまま、死にたい。死んで楽になりたい。苦しくてすぐに頭を上げる。目の前に、あの人がいる。どうしてだよ。  バシャ、とお湯をかけたら、目前の幻は消えた。
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