23. 逃がさない

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23. 逃がさない

 翌日、仕事の帰りに、私はCDショップへ向かった。買うつもりはないのに、行かなければならないような気がして、足が向かってしまった。  レコード会社はあの人を大々的に売り出そうとしているらしい。店内に大きくデビューシングルCDのコーナーが出来上がっていた。『コレ、店内でかけてます!』という宣伝ポスターが掲げられている。店の中には男の人の声で歌う曲が流れている。  私がそのコーナーのそばで放心して突っ立っている間にも、何人もの女性たちがシングルCDをすいと手に取って、レジへ持って行った。中には高校生らしき年代の女の子たちもいた。 「すっごくかっこよくない?」 「私、一目でファンになった!」 「わー、面食い!!」 「でもさ、歌も物凄くよくない?」  そうかしら。こんなやかましいところじゃ、よくわからない。私はふらふらとそこに近寄って、シングルCDを一枚、手に取った。  暗いところで撮影したのだろう。整った横顔の影がジャケット写真になっていた。その写真を見ると、『シルエット』という言葉がぴたりとはまるほどに整っていて、怖い。 「すいません、ちょっといいですか」  女の人の声がして、しなやかな手が伸びる。やっぱり彼のシングルCDを持ってレジへ行った。後から後から、客が来る。ほとんどが女性ばかり。時々、男性。  とても、売れてるんだ……  私はその時、ひとときかもしれないけれど、考えるのをやめた。シングルCDを手に持って、レジで購入する。バッグと一緒にぶら下げて、電車に乗って家に帰った。  夕食やお風呂を済ませて部屋に引っ込んでから、私はCDを改めて眺めた。あいらぶゆー。にがさない。そうよ、よく考えて。これは別に私のことじゃない。この人が作りたい歌を作って、自分で歌ってるだけ。私とは関係ない。関係ないに決まってる。  私はパリパリとビニールを開き、CDを取り出した。CDラジカセに入れて、再生のスイッチを押す。流れ始めたのは、しっとりとしたバラードだった。  シングルCDは、パッケージの裏面に歌詞が書いてある。縦長の狭いスペースに二曲分。一通り、読む。日本語と英語のごちゃ混ぜの歌詞。英語ができるのだろうから、当然ね。  田村くんと同じ声で話す人なのに、歌声はまるで別人だった。まさに別人。誠実な田村くんと正反対の、不誠実で卑劣な男だから。それなのに、歌詞は誠実そうな男を歌っている。自分に振り向かない女に恋焦がれる男の気持ちを歌った歌。嘘でしょ? 振り向かなければ、卑劣な手を使ってでも振り向かせるのでしょう? それでもメロディは美しく、これは大ヒットするだろうと私にも予感させた。  カップリング曲はもう少しアップテンポの歌だ。声はやはり田村くんとは違って聞こえる。バンドをやっていたというから、こういう雰囲気の方が好きなのかも。バラード曲の方の印象が強く残ったので、こちらはそんなに耳をとらえなかった。だけど。 『逃げても無駄だよ 迎えに行く』  そんな、歌詞があった。どういうこと? 一体、どういうこと? 歌が先にあったの? それともあの言葉を歌にしたの? どっち? 逃げても無駄だよ、迎えに行く、きっと忘れられない、君はもう僕のもの。  こんなものは、ただの文字の羅列。意味なんかない。意味なんか。  ふと思い出して、ベッドの上に投げ出してあった『フォンテーヌ』を開いた。 『田村:「I love YOU」のカップリング曲は元々は別の曲でした。それよりも「逃がさない」の方がふさわしく感じたので、急遽差し替えました。この曲はついこの前、書き上げたばかりの新作です。 編集部:なにか特別な思い入れがあってお作りになった曲ですか? 田村:そうですね。最近に出会ったある人をイメージして作りました。別に恋人ではないですよ(笑) 編集部:大変気になる情報ですね(笑)「I love YOU」も誰かをイメージして作った曲ですか? 田村:いえ、あれは自由な気分で。一人の妄想です。だからこそ曲の印象づけが大事でした。そのために編曲』  そこでバシンと音を立てて、雑誌を閉じた。手が、痛い。大好きな『フォンテーヌ』を部屋の隅に追いやり、私はベッドに身体を投げ出す。しまった、CDラジカセ、リピート再生のままだった。あの人の歌が延々と流れ続けている。もはや止めるのも面倒になった。私は、抜け殻みたいだった。  あの人の歌は、やっぱり大ヒットした。毎日のようにテレビで顔を見る。歌番組も、ニュースショーも、何もかもあの顔だらけ。バラード曲だからアコースティックギターを抱えて弾き語り、というスタイルらしい。本屋に行ってもあの顔だ。雑誌の表紙を飾ることが多い。  うっかりしていたら、新しいシングルCDが出た。今度は夜の九時のドラマの主題歌として使われていた。私はそのドラマを見なかった。ドラマは驚くほどの視聴率を誇った。  田村くんは年度末が近づいて、凄く忙しいらしい。会いたくても会えない日々が続いた。寂しいけれど、私も仕事をがんばっていた。それくらいしか、やることがなかった。  私の頭の中には、いつもあの人の歌が流れていた。逃げても無駄だよと歌う声が、いつも響いていた。本当に無駄なのかしら。だって、もう現れるわけないじゃない。芸能界の人になったんだから、そこで楽しくやればいいじゃない。私とあの人は、関係ない。絶対に。  気がつけば、春がもうそこまで来ていた。
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