26. 欺まん

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26. 欺まん

 田村くんとの約束を、私は二度、断った。生理で頭やお腹が痛いから、仕事が忙しいからと言って、デートを先延ばしにした。ゴールデンウィークが過ぎて、梅雨に入っていた。  お給料がかなり貯まったので、連休中に私は一人暮らしを始めた。バブルの余韻で、貯金の利息だけでも結構なものが入っているのだ。一人暮らしを始めるには十分だった。  何となくだが、服装や下着の好みが変わった。少しばかり流行を追うようになった。と言っても、仕事は制服だから関係ないのだけれど。ファッションシーンはもはやボディコンシャスのワンピースではなく、あまり身体の線を拾い過ぎないゆったりとしたパンツルックや、きつ過ぎないタイトスカートが好まれるようになっていた。特にビジネスウーマンにはパンツスーツが流行していた。  私は、一人暮らしを始めたことを、なぜか田村くんにすぐには言えなかった。伝えたことは伝えたけれど。私はあまり家にいない。いつも留守電だ。田村くんのお兄さん、つまり田村和仁から、気まぐれに電話や留守電があると、ふらふらと彼のマンションへ行ってしまう。  彼に、抱かれるために。 「服の感じが変わったね。似合うよ」 「このブラジャーも。可愛い。でもこれは脱がせるためだけにあるものだ」 「明日香、君ほどの女には、今まで会ったことがない」 「いい身体だ。君の身体だけじゃなくて、心も欲しい」  歯の浮くような台詞。それが甘い汁のように彼の舌から私の唇、舌、身体へと注ぎ込まれる。私は彼の下で全身をくねらせる。別の人間、別の動物になった気分だ。  脱ぎ捨てられた服すら気にならない。シワになってもいいと思ってしまう。それよりも大事なのは、この時間。彼に抱かれる、ひととき。  彼は忙しい。相変わらずテレビで売れっ子だった。最近、写真週刊誌に誰かとのお忍びデートの激写が掲載され、たいそう話題になった。しかし私は何とも感じない。 「君のことがバレたくないんだ。フェイク写真を流したんだよ」 「どうでもいい……」 「俺には君しかいないってことを、君はこの身体で充分に知ってるはずだ」  どうでもよかった。嫉妬などかけらもなかった。愛していない、からだろうか。それとも、愛し過ぎているのだろうか。わからない。ここへ来ると、私はただの性的な玩具になった気分になる。そしてそれが、心地よいのだ。自分の意思で、ここに来ている。いつか、この人が言ったように。自分の意思で。 「あなた、私のことを……愛してるの?」  行為の後はいつも、頭の中が空っぽだ。 「ひどいな、今まで俺を何だと思ってたんだ?」 「……わかんない」 「愛してるよ、明日香……これからも君だけだ」 「……不幸になるしかない……」 「こうして二人で抱き合っている時は不幸?」  ベッドの中で、そっと抱き寄せられる。柔らかな手つきで、私の腰を静かに、そうっと。 「今は……不幸ではない、と思う」 「なら、幸せ?」 「幸せでもない。何もかもが、霧の中みたい」 「何度もいったから、ぼんやりしてるんだね」  日曜日の朝。前の晩からずっとここにいた。食事もせずに、抱き合って一晩を過ごしていた。それでももう、朝の五時。お腹が空いた。 「ちょっと待ってて。メシ作ってあげるから」  彼は料理が上手だった。何度も手製の食事をご馳走になった。とても、美味しい。どこでこんな技能を身につけたんだろう。 「俺はずっと一人暮らしだからさ。大学の頃から家を出てるから。何でもできるよ。ちょっとした家具の修理くらい大したことない」 「生きる能力が高いのね」 「そうとも言うね。明日香と結婚できたら、何でもしてあげる」  結婚? この人と? 私が? 頭の中がぐにゃりと歪んだ。 「俺なら、君を満足させられる。精神的にも、肉体的にも。仕事も、してもしなくてもいい。マスコミからは絶対に守ってあげる。普通に生活すればいい。愛してるよ」  箸を止めて、彼は私を見つめた。 「愛してるよ、明日香」  この声が田村くんと同じだとは、私はもう思えなかった。これは、田村和仁の声。義仁ではなく、和仁。かずひと。かずひとの、こえ。 「結婚してほしい。明日にでも。いや、今日にでも」 「……いきなりそんなこと……」 「結婚なんか紙切れ一枚だよ。でも君が式をしたいなら、いくらでもしよう」 「……でも」 「怖がることはないんだ。必要なら君の両親にも挨拶に行くさ」  そんなことは、できない。両親は私が田村くんとつきあっていると信じているし、田村くんも、田村くんのご両親も、私とこの人とのことは知らない。そんな、そんな不誠実なことは。 「選んでくれ。俺か、弟か。できれば俺を選んでくれ。いや、君は俺を選ぶ」 「選ぶなんて……不実だよ」 「俺は最初、卑劣なやり方で君を強引に手に入れた。そのことは謝る。ごめん。その後も決して誠実なやり方ではなかった。申し訳ない。だけど今の君はどう? こうして自分で選んでここに来てる。実家を出てまで」 「それは……」 「それが君の意思だからだ。君は無意識に俺を選んでいる。義仁の腕よりも、俺の腕を選んでいる。そうだろ?」  突きつけられたくない事実を、目の前に並べ立てられる。一つ、また一つと、逃げ道が閉じられる。どこへ向かっているのかわからない迷路の中で、私は知らず知らずのうちにこの人の手を取っていた。田村くんの手ではなく、この人の手を。 「エムジュエリーのエタニティハート」 「……え?」  サク、と音を立てて、彼がトーストを齧る。並びのいいきれいな歯で。 「弟からのプレゼントだろ」 「……そ、そんなことどうでもいいじゃない」 「ここに来る時は、絶対につけて来ないね。お守りにもしていない。君は、弟を既に捨てている」  何てこと言うの。捨ててなんか。田村くんは、私の大切な。私は彼を睨みつけた。 「弟とちゃんと会ってるか? きちんと話してるか? そんなはずはない。話せないはずだ。後ろめたい。弟を裏切ってる。そもそも君はしょっちゅうここに来ていて、弟と会う時間はない。欺まん、ってやつだ。君は今、嘘にまみれている」  外は、雨が降っている。梅雨のしとしと雨。部屋の中はエアコンで快適だけれど、寒さを感じる。彼に借りたバスローブの胸をギュッと握り、私は手を震わせる。 「答えなんか、もうとっくに出てるんじゃないのか?」  冷めてしまった食べかけの朝食とコーヒーを前にして、私はもう逃げ場はないのだと心の中で悟った。初めて出会ったあの日から、もう決まっていたのだ。私はこの人のものになる。身体も心もこの人のものになる。この人のものに、なった。 「田村くんに……何て言えば……」 「簡単だよ。『あなたのお兄さんが好きになりました』って」 「田村くんは、納得しない」 「俺が納得させる」 「どうやって」 「それは兄弟間の秘密」  彼は冷えたコーヒーを、もう一度あたたかいものにいれ直してくれた。  幸せになる気分には、どうしてもなれない。多くの人を裏切っている。私は。……私は。
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