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27. 婚姻届
仕事をしながら、私の頭は他のことばかり考えていた。あの人に出会ってから、あの人の虜になってから、頭と手足は別々に動かせるものだと知った。
「早坂さん、印象お願い」
「はい」
「早坂さん、これ、現像」
「はい、すぐに」
覚えた仕事はただの繰り返し。領収書を渡してにっこり微笑む。朝、出勤して、仕事をして、夕方帰る。誰もいない家に。たまに留守電が残されているが、ほとんどが母からの電話。かけ直して少し喋って、すぐに切る。手紙はあまり届かない。田村くんからも手紙は来なくなった。仕事が忙しいのか、私に飽きたのか、愛想を尽かされたのか。そうだったら、いいのに。
テレビをつけると、田村和仁の顔を見る確率が高い。夜の歌番組によく出ている。あれから彼の歌はヒットを続けて、アルバムCDも出したし、ライブツアーもあるらしい。全国ツアーに行くの? それじゃ、私とは会えないわね。
ぼんやりとテレビを眺めていたら、電話が鳴った。出てみたら、田村くんだった。慌ててテレビを消す。
「はやっち? いま大丈夫?」
「うん。元気? なかなか会えなくてごめんね」
「そんなのいいよ。俺も実は物凄く忙しくて。休みもあまりないんだ」
「そうなんだね。今は?」
「今、帰り道。どうだろ、明後日の日曜日、会えないかな。疲れてないといいけど」
日曜日。特に予定はない。和仁が呼び出さない限り。そんなものは無視すればいい。抱かれる機会はいくらでもある。私は知らない間に和仁のことを彼に抱かれるチャンスを思い浮かべる習性が身についてしまった。
「いいよ、体調的にも大丈夫だと思う」
「じゃあ、ランチでも一緒に。どこがいい?」
「大袈裟でない方が……また田山駅の『ドイチュ』とかがいいな」
「そんなところでいいの? なら田山駅前で待ち合わせしようか」
私たちは昼の十一時半に約束を入れて、しばらくお喋りして電話を切った。
話さないわけには、いかない。この前、サインをした婚姻届まで、和仁から手渡されてしまったのだ。彼は本気らしい。本気、なのだ。
この時間の歌番組は収録済みのビデオを流しているだけだと聞いた。つまり、実際にはテレビカメラの前にはいない。多忙な芸能人が家にいる確率は限りなくゼロに近いが、私は和仁のところに電話をかける。指が記憶している番号を、軽いタッチで押した。
「もしもし」
出た。奇跡的に家にいた。
「明日香です。家にいたの?」
「ああ、明日香。うん、今さっき帰ったばっかり」
「……明後日、日曜日の昼に、田村くんと会う」
「久しぶりだろ」
「そうね」
「話すのか?」
話す……何を? 私は何を話そうとしているの?
「……そうね、話した方がいいよね」
「話した方がいい。義仁に会いたい? 心の底から」
正直言って、そうでもなかった。むしろ、気が重い。できれば避けたい。
「あまり……会いたくない」
「これ以上逃げるな。あいつにも気の毒だから」
「……あ、あなたのせいでしょ!」
「そうだな、俺のせいだな。でも俺は、君を逃がさない」
逃がさない……あの歌のタイトル、あの歌の歌詞。
「どうしてそんなに、私を?」
「理由なんかいるか? 好きなんだ。物凄く」
「どこが?」
「女の子って、みんなそれを聞くね。どこが好きって、気になるのかな。全部だよ。君そのもの。強いて何かって言わなきゃいけないんなら、君の身体に溺れてる」
ふざけた理由。馬鹿にしてる。
「……ほ、本当に私と結婚したいの?」
「俺が誰にでも、サインした婚姻届を渡すと思うか?」
常識で考えても、それは誰にもしないだろう。そんな危険なことは、普通はしない。
「あの婚姻届、証人欄の人は誰なの?」
「あの人は俺の恩師ご夫妻。ガキの頃からギターを教えてくれた先生なんだ。妻の欄のサインがないって変な顔されたよ」
恩師夫婦……この人、やっぱり本気なんだ。絶対に逃げられないことは、わかっていたけれど。
「私が田村くんと別れたら、責任とってくれるのね?」
「それもよく聞くなあ、責任とって、って。そりゃ責任とるよ。君は俺の妻になる。そして幸せになる」
「……そうね……」
「本気だよ」
「私でいいの?」
「明日香でなければだめだ」
和仁は私に、今から来いと命令した。まさに命令。
「行かなきゃだめなの?」
「ここに来たいでしょ。俺を信じたいから」
「……そうかもしれない」
「来ればすぐにわかる。俺が本気だってこと。わからせてやるよ」
誘う声。そして私をめちゃくちゃにする声。田村くんとは、違う声。おかしい、同じ声のはずだったのに。
私は、また彼の家へと向かう。もう遅い。でも、そんなに遠いところにはいない。知らず知らずのうちに、私は一人暮らしの部屋を彼の家の近くに借りたのだ。
夜の道は暗い。ひたすら暗闇に向かって、歩みを進めて行く。
「ほら、来た。おいで」
きれいな顔が、優しく笑って私を迎える。この人は、悪魔? それとも天使?
抱きしめる腕が、強い。嵐のよう。この人の前に出ると、私は何も抵抗できない。
……違う。
私は抵抗をやめたのだ。流されることを選んだ。この人との快楽を選んだ。誠実な世界ではなく、不誠実で罪の多い道を選んでいる。
自分の喘ぐ息。彼の指、手のひら、腕、そして広い胸と背中。滑らかな美しい肌は、多くのファンが騒ぎ立てる売り物。決して誰かのものにはなってはいけないはずの売り物。それが私の手の中にあって、私に愛してると囁く。囁きが私をだめにする。気持ちよくて、だめになる。溺れているのは、私の方だ。
そう、溺れているのは私……
この男ではない。私がこの男に溺れている。
どうしようもないくらい、この身体が欲しい。誰にも渡したくない。私以外、どんな女にも触れてほしくない。あなたは、私の中だけで暴れて。
「……どこにも、行かないで……」
苦しい息の中で、私は言う。言いたくなかった。こんなこと、絶対言いたくなかった。
「明日香だけの中にいるよ……」
私の中で蠢きながら、彼は耳元で囁く。きっと、嘘。不実な嘘。たとえ結婚しても、この人はいつか去って行く。
私は叫んで、意識を手放した。もう、何もかも、どうでもいい。この快感さえあれば、何もいらない。
この男がいれば、何もいらない……
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