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28. 選択
「……え?」
「ごめんなさい」
「もう一度、言って」
「ごめんなさい」
「そこじゃない、誰のことが好きになったの?」
田村くんは顔色を変えて、低い声でつぶやくように言う。混乱している顔だった。
「田村くんの、お兄さん……」
「……なんで? どこでそうなった……」
「お兄さんが……強引だったんだけど……そうじゃない、私が悪いの。ごめんなさい」
「待ってよ。はやっちは兄貴に無理やり嫌なことされて、嫌がってたじゃないか……」
互いの目の前に置かれたコーヒーは、とっくの昔に冷たくなっている。
「最初は、嫌だった。でも、そのうちに……」
「いつ、そんなに接点が?」
「田村くんと会わない間に。待ち伏せされたりして、結局は車に乗って連れて行かれたり」
「じゃあ、無理やりじゃないか」
ごくりと唾を飲み込む。どうしても、これを言わなきゃいけない。
「私……」
「うん」
「私、ね。汚いと思われると思うけど……あの人の身体なしには、もう生きられないの」
驚いた顔。ごめんね、田村くん。私、汚れてるね。
「なんでだよ……いつの間に、そんなことになってたんだよ……」
「……ごめん。殴っていいよ。でももう、決めたの。私たち、婚姻届を出したの」
「え?」
「もう、結婚してしまったの」
ごめんなさい。あなたを深く傷つけて。プレゼントしたあのネクタイは捨てるなり何なりしてほしい。燃やしてしまってもいい。
私は田村くんに裁かれる瞬間を待った。
「……わかった。別れようってことだね」
私は顔を上げた。田村くんの声は、静かだった。どうして、もっと怒らないの? どうして?
「田村くん……」
「俺がもっと怒るかと思った?」
違う、怒ってる。凄く怒ってる。顔でわかる。とても、怖い。あの人よりも、ずっと怖い。
「別れたいって言うんなら、致し方ないよ。しかももう、俺以外と結婚しちゃったんじゃあ、ね」
「待って、私、あなたを裏切ったのよ。あなたのご両親様も」
「いいよ、仕方ない」
「殴ったりしないの?」
「しない。そんな価値はない」
価値はない。私の胸に、大きなガラスの破片が突き刺さる。
「でも安心していいよ。俺も親もちゃんと受け入れるよ。親のことも気にしなくていい。俺が話しておくから。君はうちの家族になるんだし」
「家族なんて……とても顔向けできない……」
「たまには遊びに来てよ。兄貴と一緒に」
「田村く……」
「一人で帰れるよね。ここは俺がおごる。最後にそれくらいさせて」
田村くんは私に笑いかけさえした。伝票を持って、すっと立ち上がる。私は動けなかった。
「楽しかったよ、はやっち。大好きだった」
過去形。肩にぽんと手を置かれた。ほんの一瞬。すぐに過ぎ去ってしまう。
「待って……!」
「また会おうね」
手を振って、田村くんは風みたいに素早く去って行く。私は席から立つことができなかった。
胸に突き刺さった言葉が、頭から離れない。もはや親からも勘当された私。本当に帰る場所はないのだ。そう、昨日の夜、実家でこのことを話したら、汚らわしい、二度と敷居をまたぐなと言われて追い出された。
二十四時間営業のファミレスは、いつまででも座っていられる。私はもう、ここで夜を明かそうと考えるしかなかった。
自分のアパートに帰る気分にもならず、ずっと座っていた。
価値はない。
価値はない。
私には、価値はない。
当然だ。私には殴る価値すらない。裏切って、何を得たのだろう。和仁の、何を得たのだろうか。得るほどに価値のあるものなのだろうか、あの男は。
「やっぱりまだいたね」
ふと目を上げたら、そこにはサングラスをかけた和仁が座っていた。ここで話をするとは言っておいたけれど、まさか来るとは思わなかった。
「会計は?」
「……田村くんが……」
「じゃあ、すぐに帰ろう」
車に乗り込んで、滑るように走り出す。この間にさっきの話を、と考えたけれど、引き裂かれるほどの胸の痛みで口が開けなかった。
妙に時間がかかる。どこへ向かっているのだろうか。静かな車内に、私たちの息づかいだけがあった。
「降りて」
「どこ? ここ……」
「海だよ」
海って。どうしてこんな、真っ暗なところへ。
和仁は浜辺に降りて、サクサクと足音を立てて歩く。私は足を取られて、なかなか前へ進めなかった。
「大丈夫か」
大きな手が伸びてきた。私はその手を握る。ぎゅっと握る。これが、私の選択。もう、戻れない。どこにも、帰るところはない。
並んで歩く。心からの安心がない。安らぎがない。どこかしら、綱渡りみたいな気分だ。
「……田村くん、怒ってた」
「そりゃそうだろう」
「殴っていいよって言ったら、『そんな価値はない』って言われた」
「かなり怒ったな」
「怖かった」
「よくがんばったな」
握った手の親指が、私の手をそっと撫でる。安らぎなんか、ない。安らぎが、欲しかったの? 私が欲しかったものは、何だったんだろう。
「でも、笑ってた。時々遊びに来てって言われた」
「行かなくていいんだよ、向こうも待ってない」
「そうなのかな」
「俺も家族からは厄介者だ。だから帰るつもりはない」
不意に涙が溢れてきた。帰る、場所がないなんて。こんなに、不安なことだなんて。お父さんも、お母さんも、田村くんも、田村くんのご両親も、誰も私を愛していない。
誰も愛してくれない……
怖かった。凄く怖い。誰にも愛されないなんて。
「誰も見てないから、いくらでも泣いていいよ」
そう言って、強引に抱き寄せられる。この強引さ。これからは、これが日常。捨てられなければだけどね。
私は思う存分、泣いた。和仁の胸の中で。和仁の胸は大きかった。それでも、ここが自分の帰る場所だとは、どうしても考えられなかった。こんなことでは、いけない。どうすれば。
「泣いていい。もっと泣いていい。自分の心の半分を切り取ったんだからな」
「……あなたのせい……」
「俺のせいだな」
「あなたのせいよ!」
私は和仁の胸を何度も叩いた。和仁はそれを止めなかった。ただ、私を抱いていた。黙って、静かに。
「こんなことに……なんでこんなことに……」
和仁の胸を叩きながら、私は泣いた。
この男のせいだ。何もかも。この男の、せいだ。悪いのは、この人。
私はこの人と暮らすにあたり、心を無にした。無になって、エタニティハートと赤いカニ太郎を捨てた。全てを、捨てた。もう、捨てた。
私は、この男のそばで、生きる。過去を、捨てて。この先には、希望なんかないのかもしれない。
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