29. 辞表

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29. 辞表

 一緒に暮らし始めると、不思議と気持ちが落ち着いた。あんなにもたくさん泣いて、その後であまりにもたくさん抱かれたからなのか、憑き物が落ちたみたいにさっぱりしてしまった。私はこんなにも薄情な人間だったのか。  けれども、『価値のない人』という刷り込みができてしまった。ふとした瞬間にその言葉がよみがえり、私を苦しめた。 「明日香、ツアーについて来る?」 「え? 私がついて行っていいものなの、それ?」 「いいよ。宿泊先は完全に秘密が守られるから、マスコミは来ない。俺は仕事でずっといないから、ホテルにいるなり観光するなりしてていいよ。念のため、警備がつくけどね」  家にいると、一人で自分を追い詰める気がして、私は内心不安だった。孤独の中で長期間この人に会えないのは、やっぱり怖かった。和仁は安らぎではない。しかし、私には和仁しかいないのだ。帰る場所がないから。 「じゃあ、行こうかな……仕事辞めて」 「よかった。そうしてほしかった。俺のためにも」 「どうしてあなたのため?」  私のことをそっと抱きしめる。強引ではなく、優しかった。もう、田村くんと比べることもなくなった。 「君がいないと生きていけないから」 「……嘘」 「俺って信用ないんだな。でもそんな明日香がいいんだけど」  和仁の背中を強く抱く。胸の中にすっぽりとおさまる。慣れた。この人のそばにいることに、慣れてきた。  キスが降ってくる。あの、嵐のようなキスが。いつまで経っても、和仁はこういうキスをする。もう少し落ち着いたキスはできないのと尋ねたことがあるけれど、私の顔を見るとこうしたくなると言っていた。私は、足が震えて崩れてしまう。 「抱きたい……でももう出かけないと」 「わかってる。もう行って」 「ツアーは二ヶ月後だから、それまでに仕事辞めてきて」 「うん」  もう一度キスをして、和仁は出かけて行った。今日の予定はテレビ収録と雑誌のインタビュー、そして深夜放送のラジオパーソナリティ。帰宅はいつのことやら。  彼は忙しい。売れっ子の芸能人様だから、そうであってもらわないと。私たちの生活水準のためにもがんばってほしいと感じるようになった。  私も、もうそろそろ出勤しなければ。今日も同じ仕事が待っている。掃除をして、受付をして、現像をして、印象材を練って、そしてまた掃除をして帰る。  職場には隠すことができないので、先生だけに結婚したことを話し、旧姓で呼んでもらうようお願いした。すぐに夫が誰かわかったようだ。それでも秘密にしておいてくれたので、感謝している。感謝していて、このまま続けるつもりだったけれど。 「先生、ちょっとよろしいですか」 「ん? なに?」 「少し、お部屋で。ご相談があります」  院長室に入って、辞表を出した。先生はびっくりしていた。まさか辞めるとは思わなかったと言われてしまった。「主人の長期間のライブツアーに同行するので」と正直に言っておいた。 「テレビでよく見るよ。凄い旦那さんだね」 「ありがとうございます」 「ついに辞めちゃうのか、もったいないなあ」 「すみません……」 「また働きたくなったら、いつでも電話して」  ひそひそ声で先生は言ってくれる。理解のある優しい先生で、本当によかった。  私は残り半月を働き終えて、仕事を辞めた。少しだけ、寂しかった。  和仁の全国ツアーについて行っても、私は特にやることがない。ただ宿泊先を転々と移動するだけなので、本当に暇だ。観光に行こうかとも考えたが、一度外出してみたら怪しい女たちが遠巻きに見ていたので、警備の人が「帰りましょう」と耳打ちしてくれた。それ以来、外出はやめることにした。結果的に、私は毎日ルームサービスで食事をして、寝てばかりの自堕落な生活をしている。太ってしまうかもしれない。痩せ過ぎだから、心配することもないかもしれないけれど。  テレビはあるし、新聞も届く。何人かいるマネージャーさんの誰かに電話すれば、必要なものは買ってきてくれた。申し訳ないから、あまり頼まない。  和仁からもらったMDプレーヤーを持ってきていたので、それでいろんな音楽を聴いていた。カセットテープのプレーヤーよりも薄くて軽いので、MDは気に入っている。それに和仁のアルバムをダビングして聴く。  あれから和仁は短期間に多くのシングルやアルバムを出した。もちろん私は発売前に聴かせてもらえるけれど、その場で歌ってもらうよりもCDに収録されている歌の方が好きだった。だから多分、ライブには行かなくていいタイプの人なんだろう。  外はいい天気だ。ここはどこの都市だったか。家からスーツケースを抱えて全部の行程が車、もしくは小さいバス。新幹線にも乗らないし、飛行機も今のところない。今後はあるのかもしれないが。だから自分が今どこの土地にいるのか、よくわかっていない。どうせ外には出ないから、わからなくて結構だった。  キーの音がする。静かな音で、ドアが開かれる。私は入り口の方に振り向いた。 「こんな昼間に、どうしたの?」 「いや、休憩。さすがに疲れて」 「ごはんは? 何か食べた?」 「うん、向こうで弁当少し。ちょっと充電しに来た」  和仁はかなりふらついていた。心配になる。駆け寄って支えようとしたら、強く抱きしめられた。 「久しぶり……いつも同じ部屋にいるのに、なかなか会えない」 「それは、仕方ないよ。あなたお仕事じゃないの」 「わかってる。帰って来ると、君はいつも夢の中だ。遅いから当然だけど」  足がもつれる。ベッドに押し倒された。ブラインドは開いたまま。外からは見える場所ではないけれど、気になった。 「抱かせて。明日香が足りないんだ」 「ブラインド……閉めないと」 「いいよ、そんなの。君が不足してたら、パフォーマンスに問題が出る」  大袈裟なんだから。いつもうまいことやってるはず。別にそんなに無理に帰って来なくたって。  明るい日差しが入るベッドの上に仰向けに寝転がっていると、太陽が眩しい。私は固く目を閉じた。 「明日香……こうしたかった」  あのキスをして、和仁は私を抱く。昼間でも夜中でも、このキスがあれば、私は濡れる。しっとりと、濡れていく。和仁の指が、太腿をそろそろと伝って腰まで辿り着く。 「……あ……」 「聞かせて……明日香の、あの声……」 「い、嫌よ……周りに聞こえる」 「どうでもいい、そんなこと」  無体な指先の動きに、あられもない声が漏れる。ホテルはそれほど密閉されていない。ドアの下から封筒が入ってくるくらいなのだから。  でも、我慢できない。我慢することがナンセンスだと、この人に出会ってから私は感じるようになった。  何もかもを、感じるようになってしまった。身体中が、全身が、感じる。
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