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30. 指輪
全国ツアーは大盛況のうちに終わった。そんなにいちどきに全国を回れるわけではないので、ある程度の時間をかけて回っていた。その間に私は二十五歳になっていた。
和仁からのプレゼントは指輪だった。遅くなってごめん、と。銀色に輝くプラチナの結婚指輪。いつサイズを測ったのだろうか。指輪は二人分あるが、人気者の和仁がつけるわけにはいかないので、私だけがつけることになった。
よくよく見ると、とても小さく文字が刻印してある。目をこらして、私はそれを見た。
「何て書いてあるの? 英語?」
「パックスエテルナ。ラテン語だよ。永遠の平和みたいな意味」
Pax aeterna、と書いてあるように見える。小さくてわかりにくく、見慣れないスペルだった。永遠の平和。私たちに似合う言葉なのかどうかは、まだわからない。とりあえずまだ諍いは起こっていない。
……エテルナ? エタニティ……エタニティハート……田村くんからのプレゼントを思い出す。もう、使わなくなったネックレス。捨ててしまった、ネックレス。赤いカニ太郎と一緒に。
「もしも俺と君が大喧嘩をしたとしても、必ずまた元通りになる。賭けてもいい」
「何を賭けるの?」
「命を」
「やめてよ、そんなの。喧嘩なんかしなければいいんだから」
「だから約束しよう。喧嘩をしても、その晩は必ず同じベッドで一緒に眠る」
「そういう気分になれなかったら?」
「だからこそ今から約束するんだよ。お互いのために」
和仁は、小指を差し出した。私も黙って小指を絡める。ゆびきりげんまんをした。この約束は、守れるかしら。それとも、破るために約束するのかしら。
マネージャーさんたちの運転する車で、私たち夫婦は帰宅した。二人とも結婚指輪をはめている。誰にも見られることのない夜だから、和仁も安心して指輪をしていた。
パックスエテルナ。永遠の平和。死ぬまで本当だったら、こんなにいいことないのに。私は田村くんとは平和は築けなかった。価値のない女だと言われた。両親とも不和になった。私のすがる平和はここにしかない。
しばらく家を留守にしたので、室内の空気がこもっている。二人で窓を開けて換気する。ピザを取って、二人で食べる。疲れているからか、空腹なのか、和仁は本当によく食べた。お腹いっぱいになって、私たちはぐっすりと眠った。
ツアーの成功は次の仕事に繋がる。和仁はますます忙しくなった。瞬く間に数ヶ月が過ぎて行った。私にとっては、ただの主婦としての日常が戻ってきただけなのだが。
いつも行くスーパーで買い物を済ませ、のんびりと出てきたところで、中年の男性が「ちょっとお尋ねします」と寄ってきた。道でも聞かれるのかと思った。
目の前にすいと名刺が差し出される。
「『週刊scoop!』の伊藤と申します。田村和仁さんの奥様ですね?」
「え?」
目の前でカメラのフラッシュが焚かれた。眩しい、目がくらむ。どうしてカメラ? 何を撮るの?
「ご結婚はデビューした当時だとうかがっていますが、本当にあなたが奥さんですね?」
「ちょ、ちょっと、やめてください。眩しい」
「プロポーズの言葉は?」
「やめて……」
私は運よく目の前を通り過ぎようとしたタクシーを呼び止めて、素早く乗り込んだ。後ろから車がついて来る。
「すみません、後ろの車をまいてください!」
「えっ、あ、わかりました」
タクシー運転手は慣れていた。よくあることなのかもしれない。あっちへ行ったりこっちへ行ったりしながら、背後の車は消えて行った。私はそのタクシーで家へ帰った。
どうしよう。スーパーの袋もそのままに、私はソファにひっくり返った。顔を撮られた。誰が私のことをばらしたの? 和仁の関係者? それとも私の関係者? いや、私の関係者なんかいない。私たちのことを知っているのは我が家の両親と田村くんとそのご両親くらいだ。彼らはみんな、私を恥だと思っているから、口にするのも嫌うはず。じゃあ、誰なの? 完全に秘密だって言ったじゃない。普通に生活していればいいって。どうして私が写真を撮られるの?
その晩、和仁から電話があった。私のことがリークされた、どこがルートか今はわからない、当分はマンションから出ないでほしい、なるべく早く帰るからと。怖い。彼の事務所の電話番号はわかるけど、いつも電話中だ。和仁とどうすれば話せるのか。いつになったら帰るのか。
食料品などの必要なものは、以前のホテル暮らしの時みたいに、マネージャーさんが届けてくれた。和仁は用心のためにまだ帰れないと言う。一体いつ、私たちは会えるの?
一週間が経過した。と、思う。夜遅く、何だか外がうるさくて耳についた。そっとカーテンを開けてみると、車がマンションの近くに停まっていて、その周りに人だかりができている。
待って。これはまさか。
私は慌ててカーテンを閉め、家中の灯りを消した。全身が耳になる。確かに、和仁の声が聞こえてきた。マネージャーさんたちの声も。
「すみません、どいてください!」
「どいて! そこ、危ないから!」
真っ暗な部屋の中から、こっそりと外を見る。和仁の頭が見えた。帰ってきた。マンションの中にまでは、マスコミは入れまい。ここは警備員も管理人もいる。事前に連絡して乱入を阻止しているはず。
鍵が開いて玄関ドアが音を立てるまで、果てしなく長く感じる。マネージャーさんの声が聞こえる。
「明後日、いや明日の夜二時な」
「何も持たないでください」
「わかった。ありがとう」
家の中は暗い。私がいるって、わかるかな。すぐには暗闇に目が慣れないはずの和仁が、まっすぐに私のところまで歩いてくる。大きな胸が私を包む。
「……明日香……ただいま、こんなことになってごめん」
「おかえり……いいの、いつかはこうなると思ってた。覚悟してた」
「明日香の顔を撮ったのは『scoop!』って週刊誌だ。わかる?」
「うん、そう言ってた。その雑誌、あまり見たことないけど……見たくないよ」
「見る必要はない。それよりも」
うながされてベッドに腰かける。固いスプリングが気持ちのいい、上質なベッド。
「明日の夜中二時にここを出る。持ち物はなし。ここにあるものは、事務所の人が協力してくれて、新しいマンションに丸々引っ越しするから」
「どこに引っ越すの?」
「もっとセキュリティ上、都合のいい部屋を借りた。ここを出た後、ホテルでワンクッション置いて、その後でマンションに行く。とりあえずそこに移動しよう。仕方ない」
「でも……そこもきっと突き止められる」
「それまでには俺がちゃんと結婚してたって記者会見開くから。明日香の名前は出さない。一般市民なんだから」
「それ、テレビでやるの? 会見……」
「知らないけど、流す局もあるかもな」
私はずっと疑問だったことを、思い切って聞いてみた。
「誰が私のこと、ばらしたのかな」
和仁はいかにも、言いたくない、という表情を見せて頭をかいた。わかってるんだ。誰なんだろう。誰なの? 私たちを傷つけようとしているのは。
「言いたくないけど……弟だ」
「ええっ!!」
なんで!? 田村くん、どうして? 私のことなんか思い出したくもないんじゃないの?
「正確には弟の彼女だ。親父から聞いた」
「お父さん? え? 田村くんの彼女?」
彼女って、なに? 恋人のこと?
「誰がリークしたのか、なかなか調べがつかなかった。もしかしたらって思って、親父に電話した。全部知ってる家族の可能性だって考えないといけない。どうも義仁には新しい彼女ができて、その子が少し軽薄らしいんだ」
「じゃあ、田村くんが彼女に話して、それが広がって?」
「弟とは話してない。可能性大ってだけだよ」
胸の中に、真っ黒のものが広がっていく。漆黒のインクのように。これは、罰だ。私は罰を受けている。価値のない私に下された、田村くんの怒りの罰。
身体が、ガタガタ震える。
「……抱いて……」
「明日香? なに?」
「お願い、キスして、抱いて……何も考えたくない」
「明日香」
「お願い! 早く!!」
震える身体を、和仁が抱きしめる。何のためにこの人と一緒にいるの? 罰を受けるため? 苦しむため? それとも、愛しているからなの?
滴る私の汗を、彼は丁寧に舐め取っていく。
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