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3. 喫茶店
卒論の内容についてはもはやどうでもよかった。提出することに意義がある。提出さえすれば、単位が約束されている。提出しないと不可がつけられる。可でいい。可でいいから、単位がほしい。ほしいほしいと言うほど単位に困ってはいないが、最後の課題くらいは単位を落としたくはない。
卒論を教務課に提出して食堂へ向かう。大した距離はない。一分もあれば到着する。田村くんはどこだ。
「はやっちー。ここ」
田村くんは大きな食堂の隅っこのさらに隅っこに座っていた。まるで隠れるように座っていた。いつも目立たない存在の青年だが、別に悪感情を持っているわけでもないので、「おー。待たせてごめん」などと言いながら近づく。
「はやっちは、この後は?」
「いや何もない。帰るだけ。誰も来てないしさ」
当たり前だ。大学四年生で既に出なければならない授業もない。しかも年末。同級生、いや学生は皆ほとんど大学にいない。待ち合わせの予定もなかった。
「じゃあ、ちょっとつきあってくれないかな」
「別にいいよ。どこ行くの?」
「その、ちょっとお茶でも」
「お茶」
お茶? 食堂の自販機のお茶か?
「ジュースでもおごってくれるの? そこの自販機で」
「違うよ。外のどこかの店でさ」
「どこかの店って、この辺なんにもないじゃん」
「申し訳ないけど、バスで駅まで出ようかと」
駅前か。行くとしたら異様に店の多いチェーンのバムバムバーガーか、ミオンショッピングモールの中のベンガドーナツか、そこらあたりだろうか。
「どこでもいいよ。田村くんが行きたい店で」
「ごめん、ありがとう。しばらくつきあって。おごるから」
「うん、ありがと。おごられる」
バスで十五分ほど乗ると、終点が超ローカル線の駅前だ。ろくな店のない駅前。こんなところに四年間も通ったのだ。バスの本数だけはたくさんあるから苦労はなかったが。
田村くんはどこへ行こうか迷っている模様だったが、「ミオン行くか」と呟いて歩き出す。
「はやっち、昼飯食った?」
「食った。歯ぁ痛いからお粥だけど」
「じゃあ、お茶するんでいいね」
「ミオンだったらベンガのドーナツ?」
「いや、あそこはうちの学生がバイトしてるし。四階に新しい喫茶店できたぞ」
「へえ、知らなかった」
ということは、聞かれたくない話なのだな。
それにしてもこんな大きいだけで辺鄙なショッピングモールの中に、新しい喫茶店とは。私たちはエスカレーターで四階に上がった。雑貨やら文房具やらメガネやらでごちゃごちゃしているフロアを進んで建物の先っぽにたどり着くと、『喫茶ボヤァージュ』とレトロな感じに書いてある店があった。これは知らなかった店だ。
ボヤァージュ。その小さいァは何だろうか。
「ボヤージュ。旅?」
「だっけ?」
「よく知らないけど」
「俺も」
「ぼんぼやーじゅ、とか言うよね」
どうでもいいことを話しながら席に着き、あったかおしぼりをもらうと、ついそれで顔を拭きたくなる。お行儀悪いからしないのは当たり前だ。目の前の田村くんもしていない。
私はカフェオレを、田村くんはブレンドをオーダーした。
「それで、私に何か用事があるんだよね?」
「そうなんだよ。そうなんだけど」
「なんだけど、何か?」
「ちょっと言いづらくて」
田村くんと私の間に積極的なつきあいは特にない。したがって、なんらかの悪いことを言われる覚えはなかった。では一体なんだろうか。
しばらく二人とも黙っていたら、あっという間に飲み物が届いてしまった。二人でふうふう息を吹きかけてズズッと飲む。
「はやっち、クリスマスに何か予定ある?」
「ない」
即答。
「じゃあ、予定入れられる?」
「内容による」
「だよなあ」
「何よ、なんかあるの?」
「うーん」
またカフェオレとコーヒーをズズッと飲む。微妙な時間が過ぎていく。
「実は、クリスマスにちょっとつきあってほしいんだ」
「どこに?」
「デートみたいな、いや、デートじゃないな。いや、やっぱりデートか」
「は?」
よくわからない。面識のあまりない田村くんが、なぜ私にデートを? いやデートじゃなくて? 何だ?
「クリスマスイブの昼間に少し食事でもして、お茶でもして、なんならプレゼントとか俺からあげて、その後でうちに来てほしいです」
「ん? んん?」
「やっぱりだめかな」
「いや、いいとかだめとか以前に、それは一体? デート? 愛の告白?」
「うーん、何て言えばいいかなあ。ちょっと違う」
「わかるように言ってよ!」
田村くんは腕組みしながら目を閉じて眉間に皺を寄せる。言いたいことが喉まで出かかっている顔をしている。
「なによなんなのよ。田村くん、私のことが好きなの? それでデート?」
「いや、好き、かどうかはともかく、別に君のことは嫌いじゃないよ」
「私も別にあなたのことは嫌いじゃないけど、なんなのよ」
ブレンドコーヒーをズズッと飲んで、田村くんは首を回した。
「実は困ってるんだよ。助けてほしい」
「何に困ってるの?」
「取り急ぎ、つきあってる彼女が必要でさ」
なんだそれは。取り急ぎ希望すれば叶うものなのか? そんなことだったら私だって取り急ぎ彼氏がほしい。
「それで取り急ぎ私にお願い?」
「はい。引き受けてくれたら、何かお礼するよ」
「お礼って、たとえば?」
「あー、ほしいものをプレゼントするとか」
何それ。マンション一部屋ほしいとか言い出したらどうするつもりなのか。学生の分際で。
「どうして取り急ぎなのよ? 期間限定で彼女になるってこと?」
「そう! そう! 話が早いなあ。さすが、はやっち」
「全然オッケーしてないわよ私。漠然とし過ぎてる。ちゃんといちから話してよ」
仕方ないといった風情で田村くんは語った。ご両親から見合いを強く強く勧められて困っている。自分にはつきあっている女性がいると出まかせを言ってしまった。それならクリスマスにでも家に連れてきて挨拶だ。そうすれば無理に見合いはさせない。だが実のところ彼女はいない。だから早坂に助けてほしい。無理なお願いであることは承知の上だが何とか聞いてほしい。
「なんで私なのよ。他の子でいいじゃん」
「うーん、はやっちがいいなと思って」
「どうして」
「俺が君のこと、わりと好きだから」
は?
「じゃあ好きなの? 普通にデートしたいの?」
「いや、まあ、出まかせにつきあわせるのは申し訳ないんだけど、他の子だとあまり俺が嬉しくない」
「私がいいの? もし私に彼氏がいたらどうしたのよ」
「いないじゃん、クリスマス予定ないって」
そうだけど。ないけど。超遠距離とかかもしれないのに。つきあってる人が当然いないと思われているとすると、なんとなく癪だ。
「やっぱりだめ? なんとかお願い聞いてほしい。プレゼントでもなんでもするから」
「マンションひと部屋よこせ」
「いいよそれでも。そのまま結婚してもいいよ」
はあ???
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