155人が本棚に入れています
本棚に追加
32. 強風
少し大きな事件となった。テレビや新聞でも報道された。和仁は警察の調べも受けたし、私のところにも警察が来て質問された。
私は落ち着くためにと、少しの間、入院した。個室だったので、静かで助かった。顔の左側の上の方に、酸のようなものをかけられたらしい。左目も何となく見えづらい。そんな気がするだけで、見えているのかもしれない。火傷は軽かった。毎日のように軟膏をつけて過ごせば、追ってよくなるだろうとのことだった。
犯人はすぐに逮捕された。呆気なく、翌日の朝に。和仁の熱狂的なファンだと自称し、自分の娘たちを使って起こした事件だと聞いた。私たちのことは以前から尾行していたらしい。私は何も知らなかったので、やはり恐怖を覚えた。
有名税、という言葉が、頭の中にぽっかりと浮かび上がってきた。和仁が芸能人だから、こういう仕打ちも我慢しなければならないのか。それともこれは、罰の続きなのか。田村くんの罰の、続き。もうあれから、何年も経つのに。田村くんは結婚したと聞いたのに。
数日間病院にいて、退院する前に、院内の美容院で前髪を切った。流行が終わっているのに惰性でワンレングスを続けていたが、思い切って前髪を作った。これで額が隠れる。前髪が伸びてきてもすぐには美容院へ行かずに済むように、短めに揃えてもらった。気分的に少しすっきりした。
私が帰宅しても、和仁は見るからに意気消沈していた。私はその姿を見て、心が痛んだ。そんなに気にすることないのに。殺されたわけじゃない。私はここに、生きているのに。
「和仁……そんなに落ち込まないで」
「でも、痛かっただろ? もしも痕が残ったら」
「大丈夫だよ。残ったら残ったでいいよ。私はこうして生きてるんだし」
「俺は犯人を許さない」
「私だって許してないよ、でも治療は進むから。必ずまた一緒に外出できるようになる」
「怖くないか? 外に出るの」
「そんなことないよ」
例の記者会見の日以来、和仁は結婚指輪を外したことがなかった。私ですら生活の合間に外すことがあるのに、彼はその様子を一切見せない。
結婚指輪のはまった左の薬指を緩やかに握る。和仁は顔を上げた。
「愛してるよ、和仁」
「明日香……」
「今まであまり言わなくてごめんね。私ちゃんとあなたのこと愛してるよ」
「うん……俺も愛してる」
「だから心配しないで。私はあなたがいればいいんだから」
和仁は私をそっと、そっと抱きしめた。こわれものに触れるように。
「明日香、愛してる……結婚して」
「何それ、もうとっくにしてるじゃん」
「プロポーズなら毎日言いたい。俺、明日香がいないとほんとにだめになる」
「ここにいるじゃない、大丈夫だよ」
昔そうされたように、髪を一房、静かに手に取る。彼は髪の毛を指で撫でながら言った。
「時々、怖くなる。明日香が消えていきそうで」
「生きてるのに」
「うっすら消えていきそうな気がして、怖くなるんだ」
手に取った髪を唇につけながら、涙を流している。本気なんだ。この人は本気で私を愛している。私たちはもう、とうの昔に、楽園の外に追い出された存在なのだ。この涙も罰の一つなのか。
「愛してる、和仁」
「もっと言って」
「愛してるよ、あなただけだよ、どこにも行かないよ」
「うん、そうしてほしい」
「あなただけだよ……」
彼の髪に触れる。さらさらとした、美しい髪の毛。さらさらしているけれど、一本一本は太く硬い、丈夫そうな髪の毛。
私たちはキス一つしない日を、初めて過ごした。和仁の暴力的とも言えるあのキスを、今日は一度も受けていない。そのかわり、私は彼の指にそっとキスをした。
こんな私たちだけど、私たちなりに幸せだった。
顔の傷が無事に治り、目の具合もよくなった。被害に遭ったショックはなかなか抜け切らなかったけれど、私は普通に生活できるようになった。
時折、思うのだ。私たちにはなぜ、子どもができないのだろうか。
「俺はどちらでも。そんなことは自然のことじゃないの?」
「なら、凄くほしいってわけでもないのね?」
「明日香がいてくれればそれでいい」
穏やかに毎日が過ぎていった。和仁の仕事も落ち着いていた。昔のように深夜のラジオ担当をすることもなく、適度な時間帯に家にいる。たまには私にギターやキーボードでで弾き語りを聴かせてくれたりした。
ライブの数も、少なくなった。決まった場所で、決まった時期に毎年開催する。固定ファンがいるからライブは常に大入満員だし、アルバムを出せば必ず売れる。
危険なことは何もなかったし、外出にも問題はなかった。私は常に気をつけていたし、和仁もいつも注意していた。
その日はとても久しぶりに、田村くんに会うことになっていた。正確に言えば、田村くん夫婦と私たち夫婦で食事をすることになっていた。少し緊張していたけれど、和仁は「気にすることはない」と気負わない様子だったから、私も心を静かにして臨もうと思った。
風の強い日で、細い私は飛ばされそうだった。
「凄い風だな、飛ばされるなよ」
「飛ばされそうだよ」
駅までの短い距離を、やっとの思いで行った。地下鉄の駅に入る前に、自分のマフラーがなくなっていることに気づく。どこにいった?
きょろきょろしていたら、すぐ十メートルほど後ろに飛ばされていた。自分で編んだマフラー。ワインレッドの。和仁の深い緑とお揃いで。
慌てて戻り、マフラーを追いかける。横断歩道は青だし、まだ大丈夫。
「明日香! 危ないだろ!」
大丈夫だよ、青だから。マフラーを拾って身体を起こした。その時、目の前に車があった。物凄いスピードで。え、逃げなきゃ。
「明日香!!」
一瞬で、意識が途切れた。
最初のコメントを投稿しよう!