33. 記憶

1/1
前へ
/38ページ
次へ

33. 記憶

 気がついた時には、知らないところで寝ていた。いろんなところが痛い。ベッドの周りには、知らない顔がたくさんある。 「明日香、目が覚めたのか!」  ……誰? きれいな男の人。あんまりきれいだから、私は見とれてしまった。一目惚れしそうだ。 「気がつかれましたか? 話せますか?」 「……はい」 「ここがどこだか、わかりますか?」 「……病院ですか?」 「ご自分のお名前を言えますか?」  ……あれ? でも今、このきれいな人が『あすか』って言った。私の名前? よくわからない。 「……ご家族の皆様はちょっと席を外してください」  男のお医者さんらしき白衣の人が言うと、みんながぞろぞろと消えていく。きれいな人がずっと私のそばにいたがった。 「田村さん、少しだけご協力お願いします」 「……はい」  お医者さんは、私にいくつか、ううん、結構たくさんのことを聞いてきた。私はわかることには答えて、わからないことはわからないと言った。 「あの、先生」 「はい」 「あの、凄くきれいな男の人は、どなたですか?」 「そうですね、また追ってお伝えしますね。あの方に会いたいですか?」  ……どうだろう。会いたいというか、顔を見ていたい気がする。私はそのように言った。 「わかりました。少し待っててくださいね」  部屋には誰もいない。静か。なんだろ、機械みたいな音もする。あ、私が機械? に繋げられているのかな。身体にはいろんなものがくっついていて、どこも動かせない。  しばらくしたら、あのきれいな人が入ってくる。私のそばに腰かけて、じっと私の顔を見ていた。 「……あの、呼びつけちゃって、ごめんなさい」  そう言うと、彼は首を横に振った。ぶるぶるという音が聞こえそうなほど、勢いよく振った。 「……そばにいても、いい?」  どうしてそんなに悲しそうなんだろう。私は「もちろんです」と頷いた。  何だかとても静かな時間が過ぎていく。きれいな人の顔を見ていると、何だかとても心が穏やかになった。知らない人なのに、勝手なこと思ってごめんなさい。  彼はじっと私を見ている。何も言わずに。  部屋のドアがノックされる。看護婦さんが入ってきた。若くて可愛い人。 「田村さーん、点滴取り替えますね」 「……たむらさん?」 「あ、ごめんなさいね、点滴を取り替えますよ」  たむらさんって、誰だろう。私のことみたい? この看護婦さん、言ってた。私、たむらさんなの?  看護婦さんは用事が済んだらすぐに出て行った。私ときれいな人が二人だけ残される。 「……あの……」 「うん」 「私、たむらって名前ですか?」 「ああ、ええと……このまま少し待っててね。必ず戻ってくるから」 「はい……」  きれいな人は、一度部屋を出て行く。本当にきれいな人。ほれぼれする。モテるんだろうな。いくつくらいの人だろうか。何て名前なんだろう。  ドアが開いて、彼が戻ってくる。 「あのね、ええと」  何だか、言いづらそう。私は無理に聞かないようにしようと思った。 「無理しないでもいいよ」  ……あれ? 口から勝手に出てきた。きれいな人がびっくりしている。 「もう一度言って」 「え、えと、無理しないでもいいよ?」 「さっきみたいに」  私はさっきの気持ちをイメージしながら、もう一度口から出るに任せた。 「無理しないでもいいよ」 「……うん」 「無理しないでもいいよ」 「うん、そうだね」 「無理しないで……かずひと」  ガタンと音を立てて、きれいな人が立ち上がる。  かずひと? 誰のこと? 誰? 私が喋ってるの? 「俺のこと、わかる?」  私は首を横に振った。ごめんなさい、わからない。でも、この人が「かずひと」? 「やっぱりだめか……」 「……ご、ごめんなさい……」 「ああ、いいんだ、いいんだよ、無理したらだめだよ」  私はこの人の名前が知りたかった。かずひとさんなのかな。 「あの……すみません」 「うん、なに?」 「あなたのお名前を、教えてください」  きれいな人は少し悲しそうな顔で「たむらかずひと」と名乗った。たむら。かずひと。私は看護婦さんから、たむらさんと呼ばれた。同じ名前? 「私とたむらさんは、何か関係がありますか? よかったら、教えてください」 「……夫婦、だよ」  ふうふ? 私とこの人、夫婦なの? この人は私の夫?  私は何となく、嬉しくなった。このきれいな男の人が、私の夫。私は、この人の妻。ちょっと、顔がにやけてしまいそう。 「あの、私たち夫婦は、うまくいっていましたか?」  好奇心で聞いてしまった。他人の生活を覗くみたいな気分。 「……それはもう、凄く仲がいいよ」 「本当ですか?」 「俺は君のことを凄く愛してて、君も俺を愛してるって何度も言ってくれて」 「そ、そうなんですか」 「子どもはいない。夫婦、二人きり。それで俺は満足。君以外は誰もいらないんだ」  赤面してしまう。突然、こんなにきれいな人から愛の告白をされたら、誰だって浮き足立ってしまうと思う。 「思い出さなくてもいいんだよ。俺がみんな覚えてるから」 「たむらさん……」 「よかったら、和仁って呼んで」 「……かずひと、さん」 「さん、は、いらないけど……無理しなくていいからね」  動かせない指先に、たむら、いや、かずひとさんは触れてくる。どきりとした。薬指の辺りを優しく撫でてくれる。 「この指に、指輪がはめられてるんだ。今は治療のために外してあるけど……またつけてほしいな」 「は、はい……」 「俺も同じ指輪をはめてる。ほら」  大きな手を見せてくれた。その薬指には、銀色の指輪がある。私はなぜか、その手に触れてほしかった。  私の気持ちを察するように、その指は私の前髪をゆっくり撫でてくれる。それはとても気持ちのいい感触だった。私は、この感触を知っている気がする。 「あの、私、あなたの手を、知っている気がします」  かずひとさんは、驚いた顔をして、少し笑った。美しい歯並びだった。歯並び……なんで、歯並びにこだわるのかな、私。 「覚えててくれることもある。それだけで嬉しいよ。君の名前はわかる? 君は田村明日香っていうんだよ」 「たむら、あすか……」 「わからなくていいんだから、気にしないで。でも、俺は明日香って呼びたいけど、だめ?」 「いえ、いいです……あすか、って呼んでください」  たくさん話して、私はひどく疲れてきた。眠くなってくる。でもこの人を放っておきたくなかった。 「あの……少し眠りますね。もし帰りたかったら」 「ここにいるよ。ゆっくり寝ていいよ」 「でも……」 「俺はここにいる、心配しないで」 「……ありがとう、ございます……」  私は睡魔に捕まってしまった。急速に、眠気が来る。かずひとさんは、私の指に、ずっとずっと触れていてくれた。
/38ページ

最初のコメントを投稿しよう!

155人が本棚に入れています
本棚に追加