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33. 記憶
気がついた時には、知らないところで寝ていた。いろんなところが痛い。ベッドの周りには、知らない顔がたくさんある。
「明日香、目が覚めたのか!」
……誰? きれいな男の人。あんまりきれいだから、私は見とれてしまった。一目惚れしそうだ。
「気がつかれましたか? 話せますか?」
「……はい」
「ここがどこだか、わかりますか?」
「……病院ですか?」
「ご自分のお名前を言えますか?」
……あれ? でも今、このきれいな人が『あすか』って言った。私の名前? よくわからない。
「……ご家族の皆様はちょっと席を外してください」
男のお医者さんらしき白衣の人が言うと、みんながぞろぞろと消えていく。きれいな人がずっと私のそばにいたがった。
「田村さん、少しだけご協力お願いします」
「……はい」
お医者さんは、私にいくつか、ううん、結構たくさんのことを聞いてきた。私はわかることには答えて、わからないことはわからないと言った。
「あの、先生」
「はい」
「あの、凄くきれいな男の人は、どなたですか?」
「そうですね、また追ってお伝えしますね。あの方に会いたいですか?」
……どうだろう。会いたいというか、顔を見ていたい気がする。私はそのように言った。
「わかりました。少し待っててくださいね」
部屋には誰もいない。静か。なんだろ、機械みたいな音もする。あ、私が機械? に繋げられているのかな。身体にはいろんなものがくっついていて、どこも動かせない。
しばらくしたら、あのきれいな人が入ってくる。私のそばに腰かけて、じっと私の顔を見ていた。
「……あの、呼びつけちゃって、ごめんなさい」
そう言うと、彼は首を横に振った。ぶるぶるという音が聞こえそうなほど、勢いよく振った。
「……そばにいても、いい?」
どうしてそんなに悲しそうなんだろう。私は「もちろんです」と頷いた。
何だかとても静かな時間が過ぎていく。きれいな人の顔を見ていると、何だかとても心が穏やかになった。知らない人なのに、勝手なこと思ってごめんなさい。
彼はじっと私を見ている。何も言わずに。
部屋のドアがノックされる。看護婦さんが入ってきた。若くて可愛い人。
「田村さーん、点滴取り替えますね」
「……たむらさん?」
「あ、ごめんなさいね、点滴を取り替えますよ」
たむらさんって、誰だろう。私のことみたい? この看護婦さん、言ってた。私、たむらさんなの?
看護婦さんは用事が済んだらすぐに出て行った。私ときれいな人が二人だけ残される。
「……あの……」
「うん」
「私、たむらって名前ですか?」
「ああ、ええと……このまま少し待っててね。必ず戻ってくるから」
「はい……」
きれいな人は、一度部屋を出て行く。本当にきれいな人。ほれぼれする。モテるんだろうな。いくつくらいの人だろうか。何て名前なんだろう。
ドアが開いて、彼が戻ってくる。
「あのね、ええと」
何だか、言いづらそう。私は無理に聞かないようにしようと思った。
「無理しないでもいいよ」
……あれ? 口から勝手に出てきた。きれいな人がびっくりしている。
「もう一度言って」
「え、えと、無理しないでもいいよ?」
「さっきみたいに」
私はさっきの気持ちをイメージしながら、もう一度口から出るに任せた。
「無理しないでもいいよ」
「……うん」
「無理しないでもいいよ」
「うん、そうだね」
「無理しないで……かずひと」
ガタンと音を立てて、きれいな人が立ち上がる。
かずひと? 誰のこと? 誰? 私が喋ってるの?
「俺のこと、わかる?」
私は首を横に振った。ごめんなさい、わからない。でも、この人が「かずひと」?
「やっぱりだめか……」
「……ご、ごめんなさい……」
「ああ、いいんだ、いいんだよ、無理したらだめだよ」
私はこの人の名前が知りたかった。かずひとさんなのかな。
「あの……すみません」
「うん、なに?」
「あなたのお名前を、教えてください」
きれいな人は少し悲しそうな顔で「たむらかずひと」と名乗った。たむら。かずひと。私は看護婦さんから、たむらさんと呼ばれた。同じ名前?
「私とたむらさんは、何か関係がありますか? よかったら、教えてください」
「……夫婦、だよ」
ふうふ? 私とこの人、夫婦なの? この人は私の夫?
私は何となく、嬉しくなった。このきれいな男の人が、私の夫。私は、この人の妻。ちょっと、顔がにやけてしまいそう。
「あの、私たち夫婦は、うまくいっていましたか?」
好奇心で聞いてしまった。他人の生活を覗くみたいな気分。
「……それはもう、凄く仲がいいよ」
「本当ですか?」
「俺は君のことを凄く愛してて、君も俺を愛してるって何度も言ってくれて」
「そ、そうなんですか」
「子どもはいない。夫婦、二人きり。それで俺は満足。君以外は誰もいらないんだ」
赤面してしまう。突然、こんなにきれいな人から愛の告白をされたら、誰だって浮き足立ってしまうと思う。
「思い出さなくてもいいんだよ。俺がみんな覚えてるから」
「たむらさん……」
「よかったら、和仁って呼んで」
「……かずひと、さん」
「さん、は、いらないけど……無理しなくていいからね」
動かせない指先に、たむら、いや、かずひとさんは触れてくる。どきりとした。薬指の辺りを優しく撫でてくれる。
「この指に、指輪がはめられてるんだ。今は治療のために外してあるけど……またつけてほしいな」
「は、はい……」
「俺も同じ指輪をはめてる。ほら」
大きな手を見せてくれた。その薬指には、銀色の指輪がある。私はなぜか、その手に触れてほしかった。
私の気持ちを察するように、その指は私の前髪をゆっくり撫でてくれる。それはとても気持ちのいい感触だった。私は、この感触を知っている気がする。
「あの、私、あなたの手を、知っている気がします」
かずひとさんは、驚いた顔をして、少し笑った。美しい歯並びだった。歯並び……なんで、歯並びにこだわるのかな、私。
「覚えててくれることもある。それだけで嬉しいよ。君の名前はわかる? 君は田村明日香っていうんだよ」
「たむら、あすか……」
「わからなくていいんだから、気にしないで。でも、俺は明日香って呼びたいけど、だめ?」
「いえ、いいです……あすか、って呼んでください」
たくさん話して、私はひどく疲れてきた。眠くなってくる。でもこの人を放っておきたくなかった。
「あの……少し眠りますね。もし帰りたかったら」
「ここにいるよ。ゆっくり寝ていいよ」
「でも……」
「俺はここにいる、心配しないで」
「……ありがとう、ございます……」
私は睡魔に捕まってしまった。急速に、眠気が来る。かずひとさんは、私の指に、ずっとずっと触れていてくれた。
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