34. 退院

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34. 退院

 私の身体の回復は早かった。気を失っているうちに手術もしたようだし、治療もされているけれど、その後もずっと気を失っていて、その間に既に回復していたらしい。  徐々にさまざまな機械が外されて、点滴もなくなった。少しずつでも、食事が自分で摂れるようになった。かずひと、さん、は、毎日いるわけじゃない。でも、かなりの時間をここで過ごしてくれた。 「かずひとさんは、何のお仕事ですか?」 「俺は……ええと、アーティストでわかるかな。歌手。シンガーソングライター」  なんか、凄い仕事の人だった。シンガーソングライターなんて、自分の周りにはいなかった。と、思う。あれ? どうだろうか。 「どんな歌を作って歌うんですか?」 「多分だけど、明日香が最初に聴いてくれた歌は、『I love YOU』って歌」 「あいらぶゆー……」  彼はその歌を小さな声で歌ってくれた。伴奏なしだったけど、何となくわかった。 「え、と……静かな歌ですよね? バラード?」 「そう。バラードっぽい歌」 「シンガーソングライターで、凄く有名なんですか?」 「うーん、昔は本当に有名だった。君にも苦労をかけたんだよ。でも今は落ち着いてる。昔より自由に音楽ができてるよ」 「今、作っている途中の歌とか、あるんですか?」 「あるよ。できたら聴いてね」 「はい、ぜひ聴きたいです」  彼は自分のリュックから何か音楽を聴くものらしきものを取り出した。小さい機械。なんていうのかな。 「これ両耳に入れて。聴かせてあげるから」  私は言われた通り、イヤホンを耳に入れる。無意識でそうした。何で、使い方がわかるんだろ。  歌が聴こえる。きれいな歌だった。透き通るような声で、真水のような歌を歌う人なんだ。 「……きれいです。真水……水みたい。透明な」 「ありがとう。水みたい、か」 「何か、イメージがあって、歌ができるんですか?」  かずひとさんは下を向いて頭をかいた。機械を置いて、小さく言った。 「どの歌も、明日香をイメージして作ってる」 「私、ですか?」 「俺の生きる糧は、君だけだから」  私は赤面した。どうしてこの人は、こんなにも真っ直ぐに、恥ずかしいことを言うんだろうか。照れてしまう。 「あ、あの……ありがとうございます……」 「ごめん、鬱陶しいかな」 「そんな……あの、嬉しいです……」  私たちは赤い顔をしていると思う。リハビリ室で、何をやっているんだか。 「田村さん、お部屋に戻りましょうか」  リハビリの先生が話しかけてきた。何だか、邪魔が入った感じ。先生には悪いけど。もう少し喋っていたかった。 「だいたいお部屋まで歩けるようになりましたね。もう少しですよ。もうすぐお家に帰れますからね」  ……お家? 私のお家、どこ? 困っていたら、かずひとさんが囁きかけてきた。 「家は俺と同じ家だから。帰るところはちゃんとあるよ」 「あ、そ、そうですね……」  部屋に戻って、私はまたかずひとさんの歌を聴かせてもらった。『あいらぶゆー』が聴きたいと言ったら、今日は持ってきていないから、また明日ねと言っていた。 「あの……かずひとさん、私の指輪は、まだつけたらいけないんですか?」 「指輪? 先生に聞いておくね。つけたいって、思ってくれる?」  何でだかはわからないけれど、この人とお揃いの指輪をつけたかった。だって、夫婦なんだから、怒られないよね。 「はい……つけたい、です。あの、かずひとさんと、お揃い、いいなって」  私の言葉を聞いたかずひとさんは、突然泣き出した。ポロポロと涙を流して、鼻をすすっている。私は部屋のティッシュを差し出した。 「あ、ありがとう」 「どうして泣くんですか?」 「いや……嬉しくて」  思わず、彼の髪に触れた。「泣かないで」。伝えたかった。泣かないで。ここに生きているじゃない、私。 「泣かないで」 「……明日香」 「泣かないで、和仁」  あ。今。私、何か、言った? よくわからなかった。かずひとさんは、大きく目を見開いて、私を見つめている。 「うん、泣かないね……明日香」 「私、生きてます。だから、泣かないで」 「……うん。悲しいわけじゃないんだよ。嬉しくて。明日香が、俺のこと、嫌いじゃなくて」  嫌いなんて、そんなわけない。むしろ、好き。好きだと思う。ずっと私のそばにいてくれる人。私の、大切な人。他の人はわからないけれど、この人がわかればいい。思い出すことはあまりないけれど、今、好きになってる。 「私、かずひとさんが、好きみたい」 「俺のこと、嫌じゃない?」 「嫌だなんて……いつも私のためにそばにいてくれて、嬉しいです。大好きになります」  かずひとさんは赤い顔をして、ひそひそ声で「やばい、抱きしめたい」とつぶやいている。抱きしめたい。そうだよね、私も抱きしめてほしい気がする。 「今日はこれから仕事があるから、帰るね。指輪のことは先生に聞いておくよ。家にあるから、許可が出たらすぐに持ってくるよ」 「はい……待ってます」 「愛してるよ、明日香」 「私も、愛してる」  かずひとさんははっとして、でも笑って去って行く。  自然に口をついて出てくる言葉。時々こういうことがある。何なんだろう。思い出してるのかな。それとも違う現象? どちらでもいい。かずひとさんがそばにいてくれれば。  私はますます回復した。もう普通の体力……まではいかないけれど、かなりの体力を取り戻した。リハビリもほぼ終了したし、食事も残さず食べている。あとは、いつ家に帰ってもいいと言われるまでになった。  退院の日がやってきた。左の薬指には、プラチナの指輪。かずひとさんと、お揃いの。誰にもこの指輪のことは、文句は言わせたくない。かずひとさんと私を繋ぐ、大切なもの。永遠の平和が約束された、とても大切なもの。 「明日香、何も無理はしないでね。思い出したら口にして。わからなければ考えなくてもいい」 「はい……ありがとうございます」 「俺は君がいてくれれば、何もいらない。たとえ君の記憶が曖昧でも」 「うん、ありがと」  ところどころで自分で覚えのない言葉が口をついて出てくる。でももう、流れに任せることにした。私は、この人が好き。だから、一緒にいる。  かずひとさんの車の助手席で振動に揺られながら、私は左手の指輪を触った。手の温度であったかくなった、あったかい指輪。  きっと、かずひとさんの、気持ちがこもってる。
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