35. 弾き語り

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35. 弾き語り

 かずひとさんのお家はとてもきれいで広いマンションだった。お金持ちなんだなと、感心する。シンガーソングライターって、こんな家に住めるんだな。一通り部屋を案内されて、最後に寝室。 「寝るところはここ。ベッド一つしかないけど、許してくれる?」  かずひとさんは困った顔で言った。私も少し困った。いきなり同じベッドで眠るなんて、ちょっと、なんか、いいのかな。  ベッドに近づいて、ちょこんと腰かけてみた。あ、これ、凄く上等のベッドな気がする。座ると気持ちがいい。多分、寝てもいいに違いない。  ゆさゆさと揺らしながら座っていると、かずひとさんが言った。 「明日香はそのベッドがお気に入りだったよ。スプリングが気持ちがいいって。どう?」 「とってもいいベッドです、これ。病院のとは凄く違う」 「明日香が使って。俺はソファで寝るから」  いいのかな。何だか申し訳ない。私はベッドに心を残しながら、リビングに戻った。編み物をしていた様子がある。私がやってたのかしら。 「私、編み物してましたか?」 「してた。マフラー編んでくれたよ。毎日使ってる。ええと、ほら、これ」  深い緑色のマフラーを出して見せてくれた。それほど上手な編み方ではなかったけれど、かずひとさんは使ってくれてるらしい。もう一つ、深い赤のマフラーを出してきて、かずひとさんは私に持たせた。 「これが明日香のマフラー。事故に遭ったから、少し汚れてるけど」 「これで私、交通事故に……」  赤ワインみたいないい色の毛糸で編んである。少しボロっとしていた。かずひとさんと色違いのマフラー。 「クリスマスみたい」 「クリスマス?」 「これ、赤と緑で」 「ああ、クリスマスね。そうだね。初めて編んでくれたものなんだ。俺にとっては凄く大事なものだよ」  かずひとさんは、緑のマフラーを握って、大切そうに撫でている。私は、他に何か編んでいたのかな。編みかけのものを手に取り、くるくる回して見てみる。これは、もしかしたら、手袋? 何だか立体的だし。 「手袋に挑戦してた。難しい、もう嫌だ!……って言ってたな」 「……これ見ると、そんな感じがします」 「セーター編みたい、冬に着たいって、そうも言ってた。俺のサイズも測られたよ」  たくさんの毛糸に教本、そしてメモ。『和仁 サイズ』と書かれている紙もあった。私、流して書いたメモ書きって、こんな感じの字を書いてたんだな。  自分の名前と住所は、一応書ける練習はした。でもやっぱりこれが自分の名前という気がしない。知らない人の名前だ。かずひとさんと一緒にいれば、時々だけど何かを思い出す感じはあるけれど、一人では無理らしい。 「さっき見た明日香の部屋の中は、明日香のプライベートな場所だから、気が向いたら入っていろいろ見てみるといいよ。好きだったマンガとかがあるはずだから、それを読んで過ごしても楽しいかもね」 「マンガ……私、マンガ好きだったのかなあ……」 「そうだよ。少女マンガが全巻揃いで置いてあったりする。ずいぶん整理して捨てたものもあるらしいから、今は少ないんじゃないかな。厳選して置いてあると思うよ」 「じゃあ、今度見てみます」  かずひとさんは自分の部屋に私を案内してくれた。ピアノ? 電気のピアノ? あとギターがいくつか? 楽器類が多い。シンガーソングライターだからだろう。 「この音と……こっちの音。どちらが好き?」  ピアノみたいな楽器と、ギターと、両方ともを、ちょっとだけ弾いて聞かれた。 「そっちの、ピアノの音が好きかも」 「そうだね、明日香はそうだったね。じゃあこれで歌を歌ってみるね。聴いてくれる?」 「はい、聴きたい」 「そこら辺に座って聴いてて」  歌ってくれたのは、『あいらぶゆー』だった。病院で聴かせてくれて、たくさんの歌の中で私が最も気に入った歌。かずひとさんのデビュー曲で、この歌のモデルは私ではなくて、早く私に出会いたくて作った歌だと言っていた。「早く私に出会いたくて」って、その頃は私の存在を知らないのに、面白いことを言う人だなと思ったんだ。 『どんなに焦がれても 君は振り向かない 見て僕を 聴いて僕を 君のためにここにいるのに……』  切ないメロディが胸に迫ってくる。確かこのデビュー曲のカップリング曲は『逃がさない』だと言っていた。その歌も聴いた。実は私はその『にがさない』が『あいらぶゆー』の次に好きだった。 「すごーい! きれいな曲です! 声もきれい!」  パチパチと拍手して、私はかずひとさんを讃えた。この人はきっと、たくさんのファンがいるんだろう。顔もきれいだし、人気があるに違いない。 「ピアノだけの歌、凄くよかったです! リクエストしてもいい?」 「ありがとう。他にも聴いてくれるの?」 「はい、よかったら聴かせてください」 「どの曲がいい?」 「『あいらぶゆー』の次に好きな曲なんですけど、『にがさない』をお願いします」  かずひとさんは嬉しそうな顔をした。ニコッと笑って、「初めてリアルな明日香をイメージして作った歌だよ」と言った。少し恥ずかしそうだった。  『あいらぶゆー』は私に早く出会いたくて、そして『にがさない』は初めてリアルな私をイメージして。昔の私、いいなあ。なんだか羨ましい。こんなきれいな人に愛されていたんだな。それを思い出せないのは、ちょっと悔しいし、もったいない。  かずひとさんは、ピアノだけで『にがさない』を弾き語りしてくれた。病院で聴かせてもらった曲は何というか、もっとドラムとか入っていて、ドコドコしていたけれど、今日はとても静かな歌い方だった。 『逃げても無駄だよ 迎えに行く きっと忘れられない 君はもう僕のもの』  私は『にがさない』を聴いていると、何だか身体中がこそばゆい気分になる。不思議とぞわぞわしてくる。嫌な感じではなくて、快いものとして。  ピアノの間奏がとても美しい。弾いているかずひとさんも、美しい。大きな手が魔法みたいにきれいな旋律を生み出している。ドラムドコドコよりも、こっちの方が私は好きだ。 「すごーい! ピアノだけで歌う方が好きです!」  またパチパチと拍手して、彼を讃える。凄く、素敵だった。素敵な曲だった。前に聴いた時よりも、もっと好きになった。 「ありがとうね。ピアノだけで歌うのは明日香の前でだけ。他の人には聴かせないよ」 「そうなんですか? もったいない」 「もったいなくないよ。明日香は俺の特別な人だから、何でも特別扱いなんだ」  何だか、くすぐったい。私はうつむいて結婚指輪をいじくり回した。特別な人。こんなにきれいな人の、特別。  私って、恵まれてる。昔のことはよくわからないけれど、今が何だか、幸せ。
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