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36. 二人の日々
ほとんどの時間を、かずひとさんと過ごしていた。かずひとさんは家事が何でもできて、特にお料理が上手だった。私もお皿洗いやお洗濯、お掃除、やろうと思えば何でもできた。不思議と身体が記憶しているようだった。ただ、お料理は苦手だったみたい。
時折、私のお父さんとお母さんたちがやって来て、いろんなものを差し入れてくれたりした。お父さんもお母さんもわからないけれど、優しかった。初めて会った時には私が二人をわからなくて、泣かれてしまった。だけど、どこかしら、懐かしい気分にもなった。
かずひとさんのお父さんやお母さんもやって来ることがある。お母さんは筑前煮(って呼ぶらしい)をよくくれた。凄く美味しかった。
かずひとさんの弟さん夫婦もよく来た。弟さんは、私のことを「はやっち」と呼ぶ。私の旧姓は「はやさか」と言うらしい。大学の同級生だと言っていた。
みんな、優しかった。誰も私を責めたり、つらく当たったりする人はいなかった。いいのかな。病人だからかな。だいたいは、平穏にお喋りをして、みんな帰って行った。
でも今日の午後、弟さんが気になることを言っていた。「あの頃、はやっちにふられて」って。すぐに「あ」という顔をして、何事もなかったかのように話をごまかされたけれど、私は聞き逃さなかった。来客の疲れで、ベッドでぼんやり横になっていた。歯を、磨かなきゃ。
驚くほどに神経質に歯を磨く。私の昔からの習慣だろうか。私の歯は、歯並びがいい。我ながらきれいな歯並び。自慢できそう。だから虫歯にならないように、がんばって磨かなきゃ。
リビングでは、かずひとさんが新聞を読んでいた。
「疲れただろ? 寝ててもいいよ」
「ううん、あんまり昼寝すると、夜に眠れないから」
「それもそうだな」
私もコーヒーをカップに注いできて、かずひとさんの向かいに腰かける。気になっていることを、やっぱり聞いた方がいいと思って。
「あの……私、かずひとさんの弟さんをふったの?」
きょとんとして、かずひとさんは驚いた顔をした。
「さっき弟さんが、『はやっちにふられて』って、言ってた気がして」
「義仁がそんなことを?」
「うん……あ、かずひとさんは席を外してたかも……すぐに話題変わったし、弟さんも何となくごまかす感じだったけど……耳に残って」
新聞をたたんで、かずひとさんは手を伸ばす。私の手を取って、ゆったりと笑った。
「俺たちも昔は、いろんなことがあったんだよ。でも気にすることはないよ」
「……いろんなこと……どんな?」
「うーん、一度に全部話すと、明日香が疲れちゃうよ。情報量が多いから。それに……明日香は今、俺といて幸せ?」
「そ、それは、もちろん、幸せ、です……」
「それでいいじゃん。過去のことは考えたって何も変えられないし、中には思い出さない方が幸せなこともある。過去はしょせん過去だよ。もちろん過去があってこその今だけど、一番大事なのは、今、だよね?」
私はこくりと頷いた。
「今夜さ、明日香と同じベッドで眠ってもいい?」
「えっ、ええ?」
かずひとさんは私の左指の指輪を触りながら、優しい声で言った。
「何もしないよ、もちろん。夫婦だから、前はいろいろしてたけど、今日は何にもしないから安心して」
「は、はい……」
「明日香の近くで眠りたいだけ。嫌ならすぐにソファに移動するからさ」
私は「わかりました」と頷いた。いつかは一緒に寝なきゃいけない。だって、いつまでも彼をソファで眠らせるわけにはいかないんだから。彼の健康のためにも。
だけど、やっぱりちょっと、ドキドキした。
お風呂に入って、長い髪を乾かした。何となく、裸を見られる気がしてならない。何にもしないって言ってたから、心配しなくていいのかな。どうなんだろう。
ソファでギターを奏でていたかずひとさんは、パジャマ姿で出てきた私を見て、きれいに笑った。やっぱり、きれい。どうしてこんなにきれいな男の人がいるんだろう。ぼーっと見つめてしまう。
「ん? 俺の顔、どこか変?」
「あっ、違います……ちょっと、見とれちゃって」
「見とれたの?」
「あ、いや、ごめんなさい、何でもない」
「明日香、可愛い。ほんと、可愛いな」
鏡を見ても大して美人でもない、と思うのに、なぜかかずひとさんは私を可愛いとよく言う。私のことが、凄く好きなのかもしれない。だから可愛いのかな。
私たちは同じベッドに潜って、電気スタンドの灯りだけで、何となくしばらくの間お喋りしていた。
「このベッド、本当にいいベッドですね。気持ちがいい」
「明日香のお気に入りだからね」
「毎日ここで寝起きしてたのかなあ……」
「無理に思い出さなくていいんだって。俺が覚えてるよ、みんな。何もかも」
「何もかも……」
「そうだよ。ここで明日香がどんなキスをするか、どんな声を出すか、明日香の身体の奥底の感触とか、そんなことまで全部」
「……きっ、えっ、それはちょっ、と……」
「覚えてるよ、全部」
かずひとさんは、真面目な顔をしていた。私のことをじっと見て、唇まで見られている気分になった。恥ずかしい。真っ赤になっちゃう。身体の奥底とか。恥ずかしい。私は思わず手で唇を隠した。唇。身体の入り口。
大きな手が静かに伸びてきて、私の手をのける。
「唇……隠さないで。見ていたい」
「は、恥ずかしい、です」
「大丈夫だよ、俺しか見てない。俺は明日香の何を見ても恥ずかしいなんて思わない。君は最高だから」
「最高……」
「そう、君は最高の女だ」
そんなこと、信じられない。美人じゃないのに。かずひとさんみたいにきれいじゃないのに。
「私……そんなに鑑賞に値しない、凄く普通の顔じゃないですか」
髪の毛を静かに撫でられる。これだけは覚えている気がする。この感覚。
「値するよ。明日香は俺の全てだから。他の誰が何と言おうと、俺だけは明日香を愛してる」
震えが来る。嫌な震えじゃない。こそばゆい感じ。何とも言えない、どこか色っぽいような……
「あ、ありがとう……ございます……」
「ううん、夫だから当然のことを言ってるだけ」
私はちょっとだけ好奇心が出てしまった。いいよね、だって夫婦なんだもん。
「あの、かずひとさん……ちょっと、ちょっとだけ、キス、してみてください」
「え? いいの?」
「……ちょっと、なら」
かずひとさんは少し驚いたみたいだった。でもすぐに微笑んで、私の頬をゆっくりと撫でた。
美しい顔が間近に迫ってくる。私は目を閉じて、その時を待った。
少し、触れるだけの優しいキス。それを二度、三度。私は、それだけで照れた。
「……どうだった?」
「は、恥ずかしいけど……嬉しい、です」
「嬉しい? 嫌じゃない?」
「嫌じゃないです……もう少ししても大丈夫」
身体ごと近づいてきて、少し深いキスをされる。きぬずれの音がする。あ、唇を舐められた。舌が、口の中に入ってくる。いいのかな。歯は磨いたもんね。かずひとさんの舌も、歯磨き粉の味がする。
「……ん……」
何度か舌で舌を舐め上げられて、唇が離れていく。自分の吐息が漏れる微かな音。私は、ぼんやりしていた。
「これ以上したら、俺が大丈夫じゃないから」
「え?」
「もっと先までしたくなるから、今夜はここまでね」
一応、意味はわかる。照れる。
私たちはその夜、寄り添って眠った。かずひとさんの横で眠るのは、とても安心感があった。
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