37. 価値

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37. 価値

 夏だ。外はとても暑い。家の中は涼しいけれど、外に出ると一瞬で汗が噴き出る。かずひとさんは暑いのに涼しい顔をしていた。全然暑くなさそう。 「暑くないですか?」 「え、暑いよ凄く。大汗かいてるよ」 「でも、顔が涼しそう」 「あ、それ昔からよく言われてた。何でだか知らないけどさ、涼しそうな顔だって言われるんだよね」 「きっと美人だからです、多分」 「ええー、損だな、それは」  ミオンショッピングモールに入って、かずひとさんはギターのピック? だったっけ? 三角のあれ、をいくつか新しく買った。この楽器屋さんのが好きだと、いつも言っている。  ミオンは全国に散らばっているショッピングモールだ。この辺りにもいくつかある。今いるところは一番大きなところだとか。全部の店を回ったら、日が暮れそうなほどに広い。 「和仁さんと明日香さーん!」  後ろから声をかけられた。私たちが振り向いたら、弟さんのよしひとさんの奥さんが駆け寄ってくる。お名前はみほこさんだ。 「美穂子さんじゃないか。こんなところで奇遇だね」 「みほこさん、こんにちは」  かずひとさんと私が挨拶すると、ぺこりと頭を下げられる。よしひとさんはお仕事中のはず。 「私ね、今日はちょっと一人で買い物に来たんです。これからお昼にしようかと思ってた」  みほこさんがニコニコして言う。前から思ってたけれど、とても可愛い人だった。私よりも一つ下。よしひとさんとはお見合いで結婚したと聞いている。 「昼飯か、明日香、お腹空いてる?」 「はい、わりと」 「じゃあ、三人でどこかで食べよう」 「わ、嬉しい! 和仁さんご夫妻とランチ!」  喜ぶみほこさんと一緒に、私たちはレストラン街の中華料理に入って食事をした。五目焼きそばが美味しかった。 「あっ、明日香さん、五目焼きそばはお酢入れるとね、すっごく美味しくなりますよ!」 「え、これかな……あ、ほんとだ、このお酢、美味しい!」 「でしょー!」  みほこさんは話題の絶えない人で、話しやすい。昔からの友だちみたいな人だ。私はとても好感を持っていた。  食事が済んだら、かずひとさんがおごることにした。「義理の妹だからね」と笑っている。 「えと、お手洗いはどこかな」  私がきょろきょろしていたら、みほこさんが「こっちですよ」とそのまま一緒に行く。かずひとさんも隣の男子トイレへ行った。「そこで待ってるから」と言って。  個室から出て鏡の前で二人でお化粧を直していると、みほこさんが言う。 「昔のこと、思い出しました?」 「……え……ううん、あまり……」  こんな風にストレートに聞かれたことはなかったので、少し戸惑う。本当に初めてだ。こんな質問。うまく答えられているかな。 「じゃあ、義仁くんをふったことも覚えてないんですね」 「あ……ご、ごめんなさい、あの、わからないの」 「ちやほやされて、いいご身分。あなたなんか不幸になるべきなのよ」  え。なに? なんだろ。よくわからない。でも、何も言い返せず、うつむく。何でこんなことを言われるんだろう。もしかしたら、私が何か悪いことをしたのかも。記憶にないだけで。 「あ……あの」 「幸せになる価値のない人。地獄に落ちたら?」  ……ショックだった。何も、考えられない。価値って、なんだろ? 価値? 幸せになる価値のない人。価値のない人。価値のない人。  私、その言葉を知っているかもしれない。 「じゃ、先に出てますね。早く来てね。和仁さんが心配しますから」  急にいつもの声音になって、みほこさんからぽん、と軽く肩を叩かれる。去って行く。価値がないと言って、肩を叩いて去って行く。これは、なあに? デジャヴ? 昔にも、あったような感じがしてならない。  ふらふらとしながら、トイレを出た。かずひとさんとみほこさんが談笑している。そこに入っていく価値がない自分に思えた。 「明日香、遅かったな。大丈夫?」 「大丈夫ですか? 明日香さん、私と一緒で疲れちゃったかな」  何か、何か答えなきゃ。何でもいいから言わなきゃ。 「う、ううん。大丈夫。疲れてない、です」  みほこさんは今度は私の肩と腕を優しくさすってくれた。全く別の人みたい。さっきとは。 「大丈夫じゃないかも? やっぱりお邪魔だったかな、私。明日香さんが疲れちゃう。ここで失礼しますね。お二人で気をつけて帰ってくださいね」 「うん、ありがとう。義仁にもよろしく」 「はーい、伝えまーす。じゃあまたー」  スキップするように、みほこさんは軽やかに去った。私は、動けなかった。身体がかちんこちんになっている。何だろう、この感じ。ずっと昔に、何かあった感じ。 「じゃあ、帰ろうか」  動けなくて、話せなかった。かずひとさんが、話しかけてるんだよ。何か言わなきゃ。ほら、さっきみたいに。 「明日香? どうした?」  かずひとさんが、私の顔を覗き込む。私は彼の顔が見られなかった。それでもかずひとさんは、慌てたような様子で、私の手首を強く引っ張った。動けない。ぐん、と引っ張られて、転びそうになる。  その時、身体がふわりと浮き上がった。かずひとさんの腕に、抱き上げられたのだ。びっくりしたけれど、何も言えなかった。私は少しの間、気を失ってしまった。  いつも眠っているベッドの中で目を覚ました。きちんとパジャマに着替えてる。いつ着替えたんだっけ? あれ? 何でここにいるの? 「明日香、大丈夫?」  ベッドサイドで、かずひとさんの声。そうだ、私は少し、気分が悪くなって。  あなたなんか不幸になるべきなのよ  幸せになる価値のない人  地獄に落ちたら?  頭の中に、みほこさんの声がぐるぐる回る。そうだ、私は。そう言われて。それで。何もできなくなって。 「明日香、明日香」 「は、はい」 「何があった? 美穂子さんに何か言われたか?」  あんなこと、言っちゃいけない……だって、よしひとさんの奥さん。義理の妹だもの。悪口になっちゃう。 「……あ、いえ、何も」 「そんなはずはない」  断言された。かずひとさんは、真剣な顔をしている。そうよね、トイレから出てきたら私、変だったんだもんね。疑われちゃうよね。 「あの……えと……何もない、です」 「俺に嘘は言わないで。取り繕わないで。明日香のことは何でも知っていたい。具合が悪いなら、また病院に行かなきゃ」 「あ、それは、大丈夫です」 「なら、やっぱり怪しいのは美穂子さんだ」  しまった、墓穴掘っちゃった。どうしようか…… 「義理の妹だからって、気にしなくていい。嫌なことを言われたなら、正直に言ってほしい」 「でも……」 「本当の味方は俺だよ。弟もその奥さんも、君が病気になった最近になってようやく交流が始まったようなもんだ。その前は没交渉だった。だから何を言われるか油断ならないよ」  少し、迷った。それでも血の繋がった弟さんの家族…… 「お願いだよ、明日香。そうでないと君をうまく守れなくなっちゃうよ。俺にそばにいさせて」 「あの……じゃあ、コーヒー……飲みたいです」  かずひとさんは頷いて、寝室を出た。私もパジャマのままでリビングへと向かう。少し、よろよろする。がんばって、私。  テーブルの席についていたら、かずひとさんはコーヒーをいれてくれた。かずひとさんのいれるコーヒーは、美味しい。あったかいコーヒーを飲んで落ち着いて、私はやっと、今日言われたことを伝えることができた。思い出すのもつらかったけれど、がんばって、話した。嫌われないかな。大丈夫かな。  目の前で、彼は頭を抱えた。テーブルに突っ伏して、しばらく起き上がれなかった。私が見る限り初めて、彼は激しい怒りを見せた。  ドン、と、テーブルを拳で叩く。絞り出すような声で、「あの野郎」と囁いて、震えていた。  少し、怖かった。コーヒーを飲み干した後でよかったと思った。こぼれなくてよかった。
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