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38. 夕方の寝室
あの日以来、かずひとさんは在宅で仕事をする比率がさらに多くなった。時代は昔と違って便利になっていて、音楽も楽譜もメールで送れば済むようになったのだそうだ。私のそばから離れず、どこへ出かけるのも一緒。以前からその傾向はあったけれど、それがなおさら強くなった感じ。
彼のお父さんやお母さん、よしひとさんとみほこさんは、家に来なくなった。私のお父さんとお母さんは以前と変わらず来る。もしかしたら、田村家の人たちは来ないように、かずひとさんが言ったのかもしれない。私は正直、ありがたかった。みほこさんもよしひとさんも、あまり会いたくはなかった。きっと昔、私がよしひとさんをふったんだ。覚えてないけど、きっとそうだ。だから、私は価値がなくて地獄に落ちるべきなんだろう。
ふさぎ込んでいると、かずひとさんは必ず私を抱きしめた。明日香にはこんなに価値があると、何度も何度も言ってくれる。それでも私は、なかなか自分に価値があるとは思えなかった。そして私は、かずひとさんに抱きしめられることに慣れた。
彼の腕や胸は強くて大きくて、私を安心させた。そしてそのたびに、「ちやほやされていいご身分」という言葉が頭を駆け巡った。私は、いいご身分、なのだろうか。地獄に行くべき無価値な私は、決してちやほやされてはいけないのではないだろうか。
「もしも……地獄に行ったら、怖いところなのかな……」
時々、心の中の声が、外側に漏れ出てしまう。そんな時は常に、かずひとさんが否定した。
「怖くない。地獄なんかないから」
「でも、私は、行かなきゃいけない」
「どうしても行くんなら、俺が一緒に行くから。それなら絶対に怖くない」
なぜあんなことを言われたのか。私には全くわからなかった。きっと昔の私のせい。昔の私の行ないが悪かったから。何だか前世のことみたいだ。前世ってあるのかどうか知らないけど。
「……ごめんなさい……心配かけて……」
かずひとさんは私のことをさらに強く抱きしめた。
「心配くらい、させてくれよ。明日香の苦しみ、代わってあげたいけどできない。だからせめて心配くらいさせて」
「優しいんですね、かずひとさん……」
「優しいのは明日香にだけ。それ以外には冷たい男だよ」
「……そうなんだ?」
「そう。だから本当は家族からの厄介者」
そんなことは知らなかった。なら、どうして皆さんがうちに遊びに来てたんだろう。
「若い頃はいろんなことがあった。明日香からも憎まれたこともある。でも、その後は明日香は俺のことを愛してくれるようになったよ。今もきっとそうだと信じてる」
「……愛して、るかどうかは、まだわからないけど……かずひとさんのことは、大好きで大切です」
「それが愛してるってことじゃない?」
「……そっか……なら、愛してるのかも……」
かずひとさんと一緒にいれば、何も怖くなかった。それなのに、地獄に落ちるべきだとか、価値がないとか、そんな言葉の方がずっと自分に重みをもって襲ってくる。
どうして、なんだろう。
どうして、嫌われているんだろう。
どうして……
「あの、昔の私たちのこと、教えてください……」
かずひとさんは、しばらく黙っていた。不審に思っていたら、身体を離して、少しキスをされた。これも、慣れた。優しい、キス。
「いいけど、ちょっとつらい過去だよ」
「つらい……」
「また今度にした方が」
私は彼に抱きついた。いいえ、今。今、知りたい。
「今がいいです。お願いです」
「俺を嫌いになるかもしれない」
「なりません、約束します」
「どうかな……」
「だって、かずひとさんがいなきゃ私、生きていけない。まだ病気だし。嫌ったりしません。お願い、知りたいの」
わかった、と言って、かずひとさんはテーブルに行った。私も行って、椅子に腰かける。とてもいい椅子。何だか凄くいい木でできた、上質な椅子。
「初めて会った君はまだ、卒業直前の大学生だった……」
それは、長い話だった。長くて、少しつらくて、かなり苦しくて、私はテーブルを挟んで向かい合うのがちょっと嫌だった。隣で抱きしめていてほしかった。
そのようにリクエストすると、ソファに腰かけ直して、すぐ触れ合える距離で続きを聞いた。つらいところでは、彼の手を握った。何だか、彼のためにもそうした方がいい気がした。
「……嫌な話だったよな。ちょっとつらかっただろ? それに若かった俺は、とても卑劣だった。自分が恥ずかしいよ」
若かったかずひとさんのやり方は、確かに正当ではなかったと私は感じた。私を陵辱したことも、初めて知った。それでも、今の彼を嫌う理由にはならなかった。それくらい私は、彼のことが好きだった。そばにいてほしかった。
「……かずひとさんは、欲しいものに正直だったんですね。それに私が選ばれたんですね」
「ごめんな。許してくれないと思うけど、ごめん」
「謝らないで。私は覚えてないんです。それにその後も一緒にいたわけだから、きっとあなたのことを大好きだったんだと思う」
それにしても、最初に私に「価値がない」と言ったのが、あのよしひとさんだったなんて。言われて当然なのかもしれないけれど、彼の優しい雰囲気には全くそぐわないと感じる。そんなことを言わせてしまった私の罪が重いのだろう。
「恐らく、価値がないとかそんな言葉は、美穂子さんが義仁からかじり聞きした過去に基づいて、適当に言ったんだと思うよ。少なくとも、今の明日香に向けて言ったわけじゃない」
「……そうかな」
「だからもう、自分に価値がないなんて、悲しいことを思わないでほしい」
悲しいことなのかしら。価値がないって自分で思うのは悲しいのかな。よく、わからない。
「明日香は俺にとっては宝物みたいに価値の高い、値段なんか全くつけられないほど高価な女の子なのに、明日香自身が自分を無価値だと思うのは、俺はとても悲しいよ」
そうか、かずひとさんの心に負担をかけてしまうんだね。私は少しだけ、反省した。反省なのかな、これって。よくわからないや。
「疲れただろ? しばらくまた眠る?」
「……はい」
「じゃあ、ベッドに行こうか」
「かずひとさんは……今日はお仕事は?」
「俺? 大丈夫だよ、自由業みたいなもんだからさ。そばにいるよ」
「そしたら……一緒に寝てください」
リクエストしたら、彼も着替えてベッドに入ってきてくれた。
私は、思い切って、さらに彼にリクエストをした。勇気がいったけれど。
私は彼に、抱いてください、と言った。
「いいの?……明日香、後悔しない?」
「……しません。しないと思う。あなたに抱いてもらわなければ、後悔するかも」
「……どんな風に抱いてほしい? 優しいのがいい? それとも、激しいのがいい?」
「……昔、私が一番好んだ、抱き方をしてください」
その日、私は初めて、この病気になって初めて、かずひとさんに抱かれた。まだ夕方になるかならないかの時間だった気がする。男の人に抱かれるのは、初めてだった。記憶がないから。
私の身体はなぜか当然の如く準備ができていて、彼を簡単に受け入れた。
なんて、なんて、なんてことだろう。彼の腕は嵐のように猛烈で、彼の手は叫んでも叫んでも追いかけてくる。滑らかな背中にすがり、彼の髪を思わず掴む。さらさらの、きれいな髪。彼の額は汗で濡れていた。
私の身体も、どこもかしこも濡れる。彼に触れられたところは全て濡れる。気持ちがいい、なんてものじゃない。ここが天国なのか、それとも地獄なのか、わからない。もしも地獄なのならば、ずっとここにいたい。だって、この人が一緒にいてくれる。
彼の身体の一部が、私の中に入ってくる。私は声の限り叫んだ。突き上げてくる振動を、心から望んだ。「ぴったりだ」となぜか思う。彼と私は、ぴったり。何もかも。宿命みたいに決まっている。
キスが繰り返される。奪うような、誘うような、どこかしら暴力的なキス。こんなの、したことなかった。私の記憶はおかしいから、誰ともキスした記憶はないけれど、それでも、こんなキスは知らない。このキスをされると、身体が言うことを聞かなくなる。動けない。動いちゃいけない。彼の手に、好き放題される。それが、心地よい。
このまま、死んでもいい。死んでしまってもいい。ああ、もう死ねばいいんだ、この人の腕の中で。
他の男に抱かれるなんて、考えられない。彼は暴風みたいな快楽だけでなく、深い闇と光のような愛情をその腕で伝えてくれる。愛されている実感がある。
ああ、もう、死んでもいい。
過去の私は、正しい選択をしたのだ。私は、間違っていなかった。
彼の肩に私の左手がある。薬指の指輪が見える。灯りに照らされて、光っている。永遠の平和。これが、この人の平和。
私は、正しい選択を、したのだ。
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