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39. 永遠の平和(最終章)
見慣れた天井がぽかんと目に入る。何だか、身体が痛い。腰が痛い。あそこがちょっと変。
隣を見ると、和仁が眠っている。裸だ。自分も裸だということは、昨日は久しぶりに身体を重ねたのだろう。最近はあまりなかったような気がするけれど、あれ? 最近って何をしてたっけ? よくわからない、混乱。
身体が痛いが、寝てばかりもいられない。起き上がってそこにあったパジャマを着て、リビングへ行ってみたら、まだ夜だった。十時前だ。今日って、何日だ? あれ? 何年? 何月? 新聞を見ると今日の日付が書いてあるが、見ても実感がなかった。ニ千十年? 西暦? 夏だった? 八月二十日? そうだったっけ?
「明日香、起きた? 身体は大丈夫?」
和仁がパジャマ姿で起きてくる。ぼーっとした顔だ。そうだろう、眠っていたのだから。
「うん、身体はちょっと痛いけど、別に大丈夫。お腹空いてる? 何か食べたっけ? 作ろうか、簡単なものでも」
返事がない。なぜだろう。
「……和仁? どうかした?」
「……君は、何ていう名前?」
「え? 明日香? 田村明日香? 何よ急に、どうしたの?」
「俺のこと、いつも何て呼んでる?」
「え、和仁って呼ぶよね? 変かな、私」
その時、和仁が駆け寄ってきた。そんなに広いスペースではなかったけれど、椅子を跳ねのけて来て、私を抱きしめた。痛いくらいに抱きしめられる。
「明日香……帰ってきた……」
「え、どこか行ってた? 今、寝てたよね」
「追い追い話すから、今はもういいから。行こう、ベッド。すぐに」
「え、いま起きたのに」
「いいから。早く来て」
わけもわからず、私はまたベッドへ戻ることになった。そして、驚くほど情熱的に愛された。何だか、まるでもっと昔みたいな抱き方。初めて抱かれたことを思い出すような、抱き方。え? 初めて抱かれたのって、どこだった?
何が起こったのか、よくわからない。ただこの人はやっぱり私を愛してるんだなと、しみじみと感じさせられた。
私が事故に遭って、しばらくの間は記憶がおかしかったと聞いたのは、翌朝のことだった。言われても実感がなかった。しかし私には、一部の記憶が抜けてしまっていた。生活に支障はないけれど、思い出せないことがあるようだ。
たとえば、和仁と出会ったのはどこか。初めてのデートはどこか。どうやってプロポーズされたのか。結婚式はどこでやったのか。ただ、指輪の刻印が『パックスエテルナ』だということは覚えていた。
「俺と結婚したきっかけ、覚えてる?」
白いご飯を口に放り込んで、和仁は聞いてきた。そこがよく思い出せない。何だかもどかしい。
「それが、わかんない……でも、結婚したことは覚えてる。取り急ぎ、二人で婚姻届、役所に持って行った。夜だったよね」
「うん。じゃあ、俺と結婚する前に、誰か別の男とつきあってた記憶ある?」
「……うーん……ちょっと曖昧……っていうか、全く覚えてない」
「無理して思い出さなくてもいいから」
卵焼きを作ったのは和仁だ。彼は昔から、本当に料理が上手い。羨ましい。
「じゃあさ、たとえばだよ。本当にたとえばの話。価値、っていう言葉を聞いて、ぱっと思い出すことある?」
「価値?……いや、特に何も……物の価値? お金の価値とか?」
「じゃあいいよ。最初から特に何もないけど、思いついたことを聞いてみただけだから」
「何それ。和仁、変なの」
「はは、ごめん。今日、病院に行こう。一応、今はお医者さんにかかってるんだよ、明日香は」
「そうなの? ああ、記憶のことで?」
「うん」
いろいろと意味がわからないけれど、事故に遭っているなら仕方ない。私たちは午前中に病院へ向かった。
医者の先生の顔は初めて見た。男の優しそうな先生だった。ここも覚えてないのだろう、私は。入院したらしいけれど。
「記憶は一部戻っていると思います。でも、過去のことで忘れていることもあるようです。僕としては、もうこのまま生活してほしいと思ってるんですが」
「全ては思い出さなくてもいい、ということですか?」
「自分が誰かとか、僕が誰かとか、家族のこととかわかっています。だから、もうこのままで。思い出さなくてもいい過去ってあるじゃないですか……彼女は、たくさん傷ついたので」
先生は和仁の言葉を丁寧に聞き、私にいくつかの質問をした。わからないことはそれほど多くはなかった。自分の両親や彼の両親、彼の弟夫婦のことも覚えているし、自分が過去に何の仕事をしていたかも覚えている。どこの大学だったかも。生活の仕方も何も困ることはない。
「では、今日はこれで。また何か問題があったら来てください」
先生がそう告げたので、私は聞いた。
「治ったんですか? 他に悪いところはないですか?」
「身体に悪いところは全くないですよ。健康優良児ですね。記憶に関しては完全に治ってはいないようですが、ご主人様のおっしゃることもわかります。今日はもうお帰りになって大丈夫ですよ」
「……ありがとうございます」
私たちはそのまま病院の近くのお店でランチをして、ゆっくりと家に帰った。穏やかな一日だった。外は暑かったが、夏なのだから仕方ない。自分の中では季節感がどこかしらおかしい感じがするけれど、あまり外へ出ない方だから、問題ない気がする。
いつも通りの日常に戻った。和仁は以前よりも家にいる時間が増えた。仕事はメールでやり取りできるらしい。いつの間に、そうなった? でもとにかく、便利になったなと思う。私たちは携帯電話も持っていたし、使い方もわかっている。出先で離れた際もすぐに電話やメールで居所がわかるようになった。昔では考えられない。昔なら……昔なら? 私は誰と連絡を取りたかったのだろう。若い頃。大学生の頃。歯医者に勤めていた頃。誰かと、つきあってた? それとも、和仁だけ?
「誰だろう……?」
「ん? 何が?」
「あ、いや、何でもないよ」
考えるのをやめよう。考えていたら、嫌なことまで出てくるかもしれない。和仁も言ってる。思い出さない方が幸せなこともあるって。きっと忘れているのは、あまり幸せではない記憶なのだろう。
「いや、昔さ。どんな男の人とつきあってたのかなって思ったけどね。和仁以外にいたのかなって。でも、もういいや」
「うん、いいじゃん、別に。今は俺と一緒なんだから」
「そうだね、それでいいんだよね。誰だって、若い頃はいろいろあるよね」
思い出したくないと感じた。何一つ。いいことなんかなかったのかもしれない。和仁と出会ったこと以外。
ソファに座って、和仁のギターと鼻歌を何となく聴く。あ、『逃がさない』だ。この歌、わりと好き。『I love YOU』の次に好き。
「昔の歌なのに、また練習?」
「今度は久しぶりのベスト盤だから。自分で選んだ曲ばかり。全曲歌い直すよ」
「そうなんだ。『逃がさない』も入れるの?」
「もちろん。明日香の好きな歌は入れるよ、何でも」
「デビューシングルの二曲は入ってるといいな」
「もちろん入れるつもり」
「あ、あとさ、『逃がさない』をバラードっぽい感じにできるならいいな」
「ああ、できるよ。それもいいかも。そうしてみようか」
この歌を初めて聴いたのがいつだったのか、私は覚えていない。それでもいい。彼の歌は全部覚えているし、CDも全部、聴いている。知らない歌はない。それは自信をもって言える。
「あなたの歌って、真水みたいな響きがあるね」
「まみず……水か」
「うん、海水とかじゃなく、きれいな真水」
「そうか、褒められてるんだよね、ありがとう」
「褒めてるのよ」
この人と、どうやって出会ったんだっけ。和仁と。そのことが思い出せないと伝えたけれど、教えてくれなかった。知らない方がいいこともあるって言う。出会いくらい知りたかった。でも、それ以上聞くのはやめておいた。
「過去はしょせん過去。今の幸せの方が、俺は大事」
和仁はいつも言う。その言葉を刹那的とは思えなかった。真実の言葉だと、心底感じる。
知らないことがあってもいい。私はこの人を、とても愛しているし、必要としているし、生涯そばにいたい。
この人と抱き合っていれば、私は、幸せ。
パックスエテルナ、永遠の平和。この人の中に、それがある。今までのことはわからない。ただ、この人の中に、平和がある。
【完】
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