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4. ジョルジュ・ボウ
クリスマスイブの街中は浮かれきっている。生まれてこのかた彼氏がいたことのない私は、クリスマスイブに男と待ち合わせするなどという暴挙に出たことはない。しかも最後は彼の家に連れていかれる。なんだそれ。
「はやっちー。遅くなった、申し訳ない」
「あ、田村くん。いいよ、五分も待ってないから」
普段はだらしない服装をしている田村くんが、カジュアルだけどスーツ着てる。かっこいいとまでは思わないけれど、まあまあちゃんとした人だよね。
「はやっち、可愛いな」
「え。ほんと?」
「うん、そのワンピース、似合ってる」
「いいよ、お世辞なんて。気持ち悪い」
「今日ははやっちは俺の彼女。だからお世辞なんか言うかよ、今さら。可愛いよ、ほんとに」
一応、よそのご家庭にお邪魔するわけだから、あまりつまらない服装で行くわけにもいかず、冬物の一番好きなワンピースを着た。今はまだまだ身体のラインを見せるボディコンシャスの服が流行だが、私はどうもあれが苦手。痩せぎすの身体がバレてしまう。少しふんわりしたデザインのチョコレート色のワンピースだ。少々子どもっぽいかもしれない。いいか別に。一回きりだし。
少しおしゃれして、お腹空かせてきて、と田村くんに言われていたので、少しおしゃれして空腹にしてここまで来た。はっきり自覚しているが、お腹が空いた。
「お昼はどこ? これから探すの?」
「予約してる。フレンチだけどいいかな」
「フレンチでもラーメンでも何でもいい。お腹空いた」
「俺、はやっちのそういうところはよろしいと思うんだよなあ。素直だよね」
「そうかね」
二人で並んで歩いていると、田村くんは意外と背が高かった。私が小さ過ぎるのかもしれない。小さくて痩せてて目は細いし歯なんか矯正中だし。きれいだねって褒められるのはロングでワンレンストレートの髪だけだ。周囲にいる知らない女の子たちも、みんなワンレンストレートだから、大して珍しくもないんだけどね。
「はやっち、なんて呼んでほしい? 家に来るまでに名前で呼び合わないとカップルらしくないから」
「え、はやっちでいいよ」
「だめ。なら明日香って呼ぶぞ」
「ええー! 嫌だ!」
「じゃあ何ならいいんだよ。『はやっち』はあんまりだぞ。友達感だらけじゃんか」
「んんん、じゃ、あーちゃん」
「わかった、あーちゃんね。でも俺、明日香の方がいいなあ」
「じゃあ百歩譲る。田村くんのことはどう呼べばいいの?」
「そうだな、義仁でいいけど。よしくん、でもいいよ」
議論の結果、明日香とよしくんで手を打つことにして、今から半日呼び方に慣れることにした。急場凌ぎのカップルなんてこんなものなのかもしれない。
すぐ横からポケットティッシュがぬっと差し出される。思わず取ってしまうと風俗店のティッシュだった。デートの幸先が悪い。
「風俗のティッシュいる?」
「いらねえよ。そんなもの取るなよ」
「いきなり横から出てくると取っちゃわない?」
「取らないなあ」
田村くんは私の手のティッシュを取り上げて、中に挟まったよろしくない宣伝の紙を取り除き、そこら辺に置いてあったゴミ箱に捨てた。道端にゴミ箱があってよかった。ゴミ箱の中は空っぽに近かった。繁華街のゴミ箱って、いつもだいたいきれい。誰が片づけてくれてるんだろう。
「明日香」
「は、はいっ!?」
「頼むから慣れて」
「はいっ、よしくん!」
ん? 片手が生ぬるい。何だこれ。よく見たら、田村くんが手を繋いできている。何だこれ。
「たむらん! 手が!」
「よしくんだから。手を繋ぐくらいは慣れてくれよ。家に着くまでに破局したくない」
「でも、男の子と手なんか繋いだことないんだけど!」
「心配ないって。これ以上ヘンなことしないから」
しばらく緊張しつつ手繋ぎで歩いていたら、大きなビルに到着した。そこが目的地かと見上げてみたら、とんでもない店が目に入った。
「ちょっと、まさかここ?」
「うん」
「ここ!? ジョルジュ・ボウじゃん!!」
「だめだったかな」
「そうじゃなくて! ここ予約取れなくて何年待ちとか聞くけど! 凄い有名なとこでしょ!?」
「俺は待たなかったよ」
「なんで?」
「ごめん、親父のコネ使った」
さあ早くと急かされて、ビルに入りエレベーターに乗りあっという間に店内の上等そうな個室に着席する。なんでこんないい席? 親父のコネでこんな席? 親父、誰?
「田村さま、いらっしゃいませ。お待ち申し上げておりました。本日はクリスマスのコースでよろしいでしょうか」
「はい、先日お電話した通りで」
「お飲み物はいかがいたしましょう?」
「せっかく恋人と一緒なので。シャンパン適当に。食事中も適当なワインがあればよろしくお願いします。お任せしますから、お酒の紹介なんかはなしで」
「かしこまりました。どうかごゆっくりお過ごしくださいませ」
田村くんの親父、誰? そもそも田村くん、誰? なんでこんなに落ち着いてオーダーできるの? 慣れてるの? 私こんなところ生まれて初めてなんだけど。
ウエイターがシャンパンをその場で開けて、うやうやしく注いでくれる。シャンパン、高そう。この店、何もかもが高いイメージというか、高いはずだ。
「乾杯。メリークリスマス」
「か……メ……」
「全部言ったら?」
「言えるか! この状況で!」
ひそひそ声で叫ぶが、田村くんは冷静にシャンパンを飲んでいる。私も一口飲んでみたが、高そうで全部飲めない。
間もなくウエイターがオードブルを持って入ってきた。目の前に大きなお皿が置かれ、そのど真ん中にちょこんとキャビアが見える。なんとかかんとかのキャビア添えでございます、と聞こえたような気がする。歯の痛みがおさまっていて、本当によかった。
「あの、田村くん」
「よしくん、じゃない?」
「あ、よしくん。ひとつ言い忘れてた」
「何だよ、明日香。今からこの話はなかったことに、とかやめろよ」
「違う違うそうじゃないって。あのさ、私さ、歯列矯正中でしょ。食べ物が歯の器具に挟まって汚いけど、食事が終わったら速攻で歯磨きするから、それまで口元見ないでくれる?」
「ああ、いいよそんなこと。俺も小さい頃に矯正したからわかる」
「ああ、よかった、ありがとう。あとはもう食べるわ、おごりでしょ?」
「うん、おごり。せっかくだから楽しんで」
「いっただっきまーす」
「いいよなあ、そういう素直なとこ」
オードブルは美味しかった。スープも魚も肉も美味しかった。パンもバターも美味しかった。デザートもコーヒーも美味しかった。ワインもみんな美味しかった。美味しくないものはなかった。値段が怖くて恐ろしくて恐怖を感じて怖気づいて、心身が震えた。
結局は歯磨きしている間に、会計は彼が済ませていた。最後まで値段は聞けなかった。無理だ。
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