7. 田村家

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7. 田村家

 タクシーで到着したのは、結構な豪邸だった。緊張する。これはかなり緊張する。歯を食いしばってしまう。痛いけど。 「明日香、大丈夫?」 「よ、よしくん、オッケーです」 「じゃあ中に入るか」  田村くんがキーケースから鍵を出して、門を開く。門の中は田村家だ。がしゃんと音がして、門が閉じられた。玄関に向かって歩くとどんどん緊張してくるのがわかった。落ち着け私。いつかはやってくる日が、初めてのデートの日だっただけじゃないか。そもそも待ち合わせするまで何とも思ってなかった男の子だけどね。 「ただいまー」 「ぼっちゃま、おかえりなさいませ」  ぼっちゃまだと!? 召使いがいるのか!? 「いつこさん、ただいま。父さんと母さんは?」 「夕方からお待ちかねですよ」  いつこさん。おばあさんまではいかないけど、わりと年配のきれいな人だ。誰? ばあや? 「こちらは『いつ子』さん。俺が子どもの頃からうちで身の回りの世話をしてくれてる人だよ。うちは両親とも勤めてるから、育ての親みたいな人」 「はあ……いつ子さまですか」 「明日香、さまなんかつけなくていいんだよ、いつ子さんでいいよ」  そのいつ子さんはにこにことして、とても感じのよさそうな女性だった。頭を下げて挨拶する。 「早坂明日香です、よろしくお願いします」 「太田(おおた)いつ子と申します。何でもお申しつけくださいませね」  靴を脱いできちんと揃えて、田村くんについていく。純和風のお屋敷はかなり広そうで、廊下も大きくて長い。後ろからいつ子さんもついてくる。 「明日香、この先に親父たちいるけど、本当に大丈夫? 顔色よくないけど」 「だ、大丈夫だと思う……」 「俺ちゃんと横にいるから。心配しないでいいからね」  ぶんぶんと頷くと、田村くんは襖を開いた。大きな客間(かな?)は誰もいない。 「ぼっちゃま、お食事のお部屋ですよ」 「あ、飯だった。違う部屋だわ」 「え?」 「間違い間違い。こっちの部屋」  はははと笑ってもう少し歩く。田村家、広い。うちだったら狭すぎて間違える部屋すらないけど。 「ただいまー」 「ああ、おかえりなさい。待ってたのよ」 「言った通り、俺の彼女連れてきたよ」 「まあまあ、来てくださったのね。お待ちしてましたのよ。あらまあ、可愛らしい方だこと。こちらの席にどうぞどうぞ」 「こ、こんばんは」  これが田村くんのお母さんか。大人しそうだけど楽しそうな印象の人だ。いい人そう。 「父さんは?」 「もしかしてテレビかしらね。お父さん、お父さん、早く!」 「まあいいや。明日香、ここに座って」 「でも、お父様が」  と言っていたら父親登場。た、田村くんだ。似てる。地味な感じの人。この人が大蔵省か。 「おおー、来てくださいましたか。寒い中ようこそようこそ。さあさあ、座って座って」 「ほら、明日香。遠慮しないで座っていいんだよ」  座ってもいいのかしら。彼氏(に今日なったばかりの人)の家なんか来たことないからマナーがよくわからない。 「明日香、こちらが親父とお袋。父さん、母さん、こちらは早坂明日香さんです。俺、この人大好きなの。凄く惚れてるの。だからもう変な見合い持ってこないでよ」 「は、早坂明日香です、よろしくお願いいたします……」  私はぺこりと頭を下げて挨拶した。もっと何か言った方がいいのかしら。よくわからないから、おかしなこと口走らない方が身のためよね。 「明日香さん、ごめんなさいね、この子がお見合いなんて嫌な思いなさったでしょ」 「いえ、そんな」  どうでもよかったけど。最初は。 「明日香さん、息子をよろしく頼みます。成績は普通らしいがとりあえず就職先は獲得してあるのでね、将来のことは心配せんでください」 「父さん、そんな先のこと今から心配するなよ」 「義仁、大事なことだぞ。もう学校は卒業だろうが」 「はーい。ちゃんと働きますよ」  なんか。なんか。いい香りがする。お食事の香り。さっきからお腹空いてるんだった。完全に空腹だ。ランチに豪華フレンチおごってもらったのに、あれはどこへ消えた? 「明日香さん、お腹空いてらっしゃる? 今日ね、炊き込みご飯作ったんだけど」 「明日香、どう? 腹減ってる?」  そんな。そんなこと。それはもう、物凄く。 「……すっ……!」  思いの外、大きな声が出た。みんなが注目している。しまった、失敗した。けど。 「……凄く空いてます……お腹……」  お母さんが「まあー! よかったわ!」と叫びながら台所かもしれないところへ消えていく。いつ子さんも消えていく。え、お手伝いした方がいいのかしらん。  私も何となく立ち上がりかけたら、田村くんに手首を掴まれた。 「明日香、どこ行くの」 「お手伝い……した方が?」 「いいってそんなの。ほら、座って」  そろそろと再度腰かけて目を泳がせていたら、お父さんから声をかけられた。 「明日香さんはどこに就職するか決まってますか」 「あ、私は……いま通ってる歯医者に」 「ほう、歯医者。歯科衛生士が目標ですか?」 「いえ、ただの電話番と受付です……すみません……」 「なぜ謝るんですか? 立派なお仕事じゃないですか」  そんなこと言ったって、大蔵省親子が目の前にいたら、謝らなきゃいけないような気分になる。 「明日香さん、受付って非常に重要なお仕事ですよ」  田村くんのお父さんは真剣な目で私に話しかけた。お説教されちゃうみたい。 「受付の人が感じが悪いとね、そこに来たお客さん、お医者さんなら来てくれた患者さんがね、そのうちに嫌になって悪い評判が立つかもしれない。そしたらゆくゆくはその医者は潰れるかもしれない。命運を握っているのは看板である受付の人ですからね。明日香さんは重要なお仕事に選ばれたんですよ。この人なら大丈夫って思わないと、絶対に選ばれない仕事なんですから」  そんなこと、考えたこともなかった。あの松木先生がわざわざ私を選んだってことかなあ。適当に選んだわけじゃないのかな。 「そ、そういうものですか?」 「そういうものですよ。保証します。私は採用担当もしたことがあるのでね、わかりますよ。最適でない人は選びません」  そうだったのか。大蔵省に比べたら全然いけてない就職先だと悲観していた自分が、ちょっと情けなくなった。 「ありがとうございます。がんばってお仕事やります」 「そうそう、自信持って、でも謙遜にね」 「はい、謙遜に」  いいこと言うなあ、このお父さん。うちのお父さんなんか、そうかよかったな、しか言わなかったのに。  私はしばらくの間、田村くんのお父さんと話し込んでしまった。大学でのこと、これからの仕事のこと、卒論のテーマのこと、いろんなことだった。
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