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しまった。
はあはあと息を切らしつつ、石や紅葉した木の葉が乱雑に敷き詰められた道を歩く。いや、人はおろか、獣の足跡すら見当たらないこの道は、果たして「道」と呼べるのだろうか。
「はあ~」っと大きな溜息を吐くも、それは鳥の鳴き声一つもない山中に溶けて行った。
まさか、登り慣れた山で遭難するとは。登り慣れていたからこそ慢心してしまったのか。
紅葉の秋、外から見る紅葉も良いが、山の中から見る紅葉が好きで毎年この時期になると一人で登山している。今年も美しく木々が彩られたので、意気揚々と登っていたのだが、見惚れていたのかいつの間にかいつものルートを外れていた。山というのは山道を外れてしまうと同じような風景が続く。気軽な気持ちでの登山にはコンパスも地図も持って来ておらず、今俺は完全に遭難者と化していた。
一度足を止め、水筒から水を一口。リュックの側面ポケットに入れていた携帯を取り出し見るも、「圏外」の文字。
いつもは山頂でもどこでも電波がある山のなのに。小さく首を捻り、再び歩き始めた。
本当なら歩き回らない方がいいのだろうが、携帯が圏外なとこから他に連絡の取りようがない為、歩いて下山する方が早いと判断したからだ。標高が高くないこの山、下方に向けて歩けば下りられるのではないかという考え。
しかし一向に下山している雰囲気は感じられない。沢も見つからず、水筒が空になってしまえばますます窮地に陥ってしまうだろう……と、不意に風が吹いた。
さわさわと紅葉が鳴る。あまり強くは無い風なのに葉が舞い、俺の視界を奪った。葉擦れの音が、「くすくす」と笑っているようで。
「……え?」
俺の口から思わず声が零れた。
目の前に、大きな黒い門があった。風雨に曝されてきたのだろう木製のその門は、艶を無くしていながらも堂々とした風格を漂わせている。そしてその奥にはこれまた立派な平屋の日本家屋が見えた。
さっきまでなかったはずなのに……
こんなものがあれば、いくら何でも気付くはずだ。それなのに俺は今の今まで気付いていなかった。
恐る恐る門に近付いていく。もしかしたらここから助けを呼べるのでは――下山の方向を教えてくれるのでは――と思ったからだ。足の下で木の葉が音を立てる。しかしそれは門を潜った瞬間消えた。
広大な庭にはこの葉一枚も落ちておらず、代わりに美しい花が一面に咲いていた。見た事もない美しい花に、嗅いだことのない芳しい香り。そしてその花の間を縫うように鶏がのんびり歩きまわっている。
玄関に辿り着けどインターフォンの様な呼び出し機器の姿は見つけられず、かといっていきなり玄関を開けるのも忍びなく、偶然住人に会えやしないかとぐるりとまわってみる。
息を呑んだ。
テレビの時代劇や牧場でしか見た事がない、牛舎や厩があった。そこに入れられている馬や牛が木桶に入れられた草を食んでいる。
何だここは。
鼻を動かせど、動物特有の臭いは無い。牛も馬も口をもごもごさせながら俺を一瞥しただけで、また木桶へと顔を突っ込んだ。
動物の鳴き声なんか、ここに登り始めた時から一度も聞いた事がない。
いつもとは違う山に登っていたのか? いや、そんな事は無い。
大きく首を傾げつつ玄関に戻ってくる。人の気配は相変わらずない。仕方なく玄関をノックすると、「すみません」と声を掛けた。そうして暫く待つも返事は無く。
俺は小さく深呼吸すると音を立てて玄関を開けた。
「すみません!」
今度は大きな声で呼びかける。
沈黙。
「あの、誰かいらっしゃいませんか?」
牛や馬、鶏がいるのだから世話をしている人物がいるだろう。呼び掛けつつ玄関内に一歩足を踏み入れる。と、
「あら、どちら様でしょう」
春雨のような、夏の青嵐のような、秋の夜更けのような、冬の早朝のような、筆舌に尽くしがたい美しい声がした。はたはたと軽い足音も。
そして姿を現したのは、朱色と薄茶色の着物を見に纏った美しい女性だった。渋栗色の髪を綺麗に後れ毛ひとつとなく結い上げている。
「あの、どうかなさいました?」
戸惑う女性の声にはっと我に返り、慌てて自分が遭難している事、もし良ければ電話を借りられないかという事を伝えた。
「それは大変でしたね。どうぞおあがり下さい」
女性は教科書に載っていそうな美しい所作でスリッパを出すと上がるように促してくる。その言葉に甘え上がれば、まるで自分が殿様になったかのように錯覚するほどもてなしてくれた。
火鉢で沸かした鉄瓶の湯で淹れてくれた茶は美味しく、出された菓子は舌の上で蕩ける。
感心している俺の姿を、女性は微笑みながら見守っていた。
「貴方、お名前は?」
「山岡照毅と申します」
口の中に残る甘みを茶で流し込み答えれば、女性は更に深く笑んだ。
「山岡様、お待ち申しておりました」
「え?」
ぐらん、と視界が揺れる。手から湯呑の感触が消え、その代わりに背中に畳の感触。
「毎年この時期に登っていらっしゃる山岡様のお姿を見て、どうしても欲しくなりまして」
美しい声が、ぐわんぐわんと耳の中で揺らぐ。
「な、なにが……」
「はるか昔から、わたくしは――迷い家はいつもいつも人に与えるだけで。時には貰ったって良いでしょう? わたくしだって富貴を授かりたいわ」
冷たい手が俺の頬を包んでくる。
「迷わせて迷い家に――わたくしの元に来て下さるように。ずっとお待ちしておりました」
秋の果実の香りする唇が、意識が遠のいていく俺の唇をしっとりと包み込んだ。
「『迷い家』って、訪れた者に富貴を授ける不思議な家で、訪れた者はその家から何か物品を持ち出してよいことになっているけど、あれって妖怪の類になるの?」
「知らん。でも富貴を授けるなら妖怪じゃなくて神様とかじゃない?」
「妖怪でも神様でも、『迷い家』に意識――人格があるって事だよね?」
「だとしたら山の神様じゃないかな」
「山の神様って女の人って言うよね。じゃあ、迷い家――山の神様に気に入られたら、ずっとそこに閉じ込められるってこと?」
「かもしれないな。だから山で行方不明になる人に男性が多いんじゃない」
「山の神さま、こわっ」
終
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