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 優斗は久志を突き放すように笑った。そのせめてもの笑顔の仮面、(ひび)(きず)に装飾された石灰色の仮面の下には、間違いなく引きつった素顔があるに違いない、そんなぎこちない笑みであることくらい、久志にすらすぐ分かった。分かったが、これほど同調を求めない乖離的で孤独な笑みは、ただ久志のひたすらとてつもない合意と悲しみを誘った。  そこにはもう、自分を求めている存在が消え果てていることが久志には分かって、言葉が出なかった。そこにはただ、久志を特定の存在としては決して認識しない、全てに等しく向けられた絶対的な無関心が人間の形をして、久志に囁いているに過ぎなかったのである。 「大学は獣医学部に行った。でも今なら分かるんだ。それは僕が動物を助けたかったからじゃない。僕は動物、そして人間の苦しみを理解したくて、そこに行ったに過ぎなかった。でも結局何も分からなかった。僕は昔からずっと、自分の苦しみさえ、他人の苦しみさえ、それが一つもよく理解できなかった。だから僕は今こうして漫然と、人間的に、ただ生きているだけなんだ。さあ、小滝君。今日は一旦帰って、また出直してくれないか」  あえなく久志の一日の計画は崩れ去った。久志にはもうあのアパートの一室へ帰るという選択肢しかなかったが、渋々帰ったとてそれからどうするかなど何も考えていない。  それどころか久志の今後数日、数週間、数カ月先までの計画はすべて白紙の日誌に返り、しかもそれは汚れ、水に濡れ、元に戻せないほどそこら中破けてしまっていた。元々ずっと先まで予定が白紙だった久志が、また一から歩み始める準備に入らなければならないくらい、途中まで終えた修繕をあとちょっとで諦めてしまうのも、それでは余りに苦患(くげん)が過ぎる。  夜更けに(はた)を織る姿を覗き見られてしまった鶴のように、久志の理想、理想であるべき生活の描像は、今にも隠していた翼を広げて、果てしない虚空の彼方へ飛び去ってしまうかのように思われた。久志はもう、正しく孤独でいる方法を忘れてしまったのに。  優斗や夏紀に会う以前の自分を思い浮かべようにも、久志にはそれが何故かできないように思われる。そこには確実に自分と同じ肉体を共有していた紛れもない()()が居たはずなのに、その自分と今の自分は、同じ精神を一部たりと共有していないように思われる。  現在と以前では、物事に対する捉え方、悲しみ方、喜び方、苦しみ方、それら全てが全く違う仕草を持ち、全く違う投影を持ち、全く違う結果を持っていた。だがそうすることでそれら全ては今久志の信頼を見事に裏切り、久志は自分の精神的な連続性を信じることが出来なくなった。するともう、久志が己という存在を確たる存在として認めて生きていくためには、肉体の連続性に依存して生きていくしかないが、だからといって久志は、やはり鏡に映った自分や、水の表面に映った自分を見て、それが本当に連続性の上に在る自分自身であると断定できる自信がない。  久志が店の敷居を跨ぐと、空から日差しは照り付けるような強さを増している。降りかかってくる光に目が触れると、久志は眩暈を感じた。だがこれは日光の眩しさではなく、あの陰鬱な暗闇のせいであることは明らかだった。気が触れそうだった。 「帰るの。それとも逃げるの」  ショウウインドウの前で夏紀が待っていた。久志を一瞥もせずにしゃがんで、新しい水に満たされたバケツを脇に置いて。その声は夏紀自身から発せられて聞こえるというよりは、バケツに満たされた水の表面から反射されて、意図しない消沈や雑音の木魂が返ってくるように思われた。  久志にはよく似た情景の見覚えがある。この少女が、あの日、久志がこの店に初めてやって来たあの時からずっと、声に出せない救いを待ち続けていたのだとすれば……久志は全てを理解して、やるせなかった。 「僕には何もできないんだね。あのときから、ずっと」 「そうだろうね。うちの店をどうこうするなんて、お兄さんには無理だよ。出来ると思ってんの。偉そうに」  久志が去ろうとすると、夏紀はバケツを乱暴に覆して水を地面に放り流した。その飛沫で濡れた手で、久志の腕を強く掴んで振り返らせた。それは驚くほど強い力だった。 「でもどうなの。今まで何にも考えずにうちに入り浸ってたのは分かってる。でもこのままほっておけるの」  夏紀は汚れの酷いエプロンを脱いでいた。恐らくはペンキをぶちまけられたあと、その飛沫を洗い落としたために、夏紀の薄い白シャツの首元や襟や袖はまだ薄っすら濡れたまま乾いておらず、その滑らかな生地の下に、彼女の下着や内側のなよやかな肌の赤らみが、絵絹に透かして描かれたようだった。  久志は顔を背けた。すると夏紀は久志をもっと近くに引き寄せた。するとその不屈の眼や抑圧された鼻息や激情な鼓動や裡籠る体温まで、数枚の薄い布越しにすべてが仔細にはっきり思われた。 「ねえ怖かった。私、あいつらの一人に殴られた。小汚い糞みたいなやつに押し倒されかけて、犯されるかと思った。咄嗟にバケツで殴ったの。本当に殺してやろうと思って。何度も何度も」  そこには正しい形を持った、押し殺された肉感があった。丸みと重みのある、柔らかな輪郭を持つ肉感が、若くしなやかな熱を帯び、瑞々しい滴りを浴びて立っていた。しかしそれらは、決して美しいものではなかった。  久志は夏紀の肩を抱き寄せた。自分こそが何者かに救いを求めていただけに、それがもし久志に救いを求めているならば、他人というよりは自分自身だと思って抱き寄せる以外に正しい術がなかった。  だがそれは決して久志自身ではない。するとそこに立っていたのは、久志に抱き締められるためだけに自ら官能を身に纏い、しかもそれに指先だけでも触れればその温かさを感じて甘い喘ぎを上げるのもいとわない、だからこそ犯し難い肉感の模型なのだった。 「私、泣いていいの」  夏紀の身体が震えた。久志は地面に打ちつけられた杭のように微動だにしないで答えた。 「泣きたいときに泣いておかないと、いつの間にか泣けなくなるよ」  夏紀は久志の腰にきつく腕を回して、息を押し殺して泣いた。
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