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 久志は頻繁に優斗のペットショップを訪ねているうちに、夢を見なくなった。吉夢も悪夢も夜を去った。毎日よく眠り、気持ちよく目覚めた。  気持ちの良いままバスに乗って、軽やかな足取りで通勤路を歩き、あのむさ苦しい『教育』という信条を掲揚し、こうしている間にも、どんどん有望な少年犯罪者を量産するカルト教団の大聖堂に足を踏み入れても、何の気兼ねもない呼吸を許せるようになった。  土曜の仕事帰りに女子校生をコンセプトにした風俗に通うのが趣味の上司や、新任の女教師と不倫している既婚の同僚や、礼儀のなってない糞餓鬼や、クレーマー気質の論理破綻した頓馬な保護者相手の仕事にも、竹を割ったようにずっとにこにこと気楽に応じるようになり、世界の全てが華やかに見えた。  だがそういう晴れやかな日々の裏で、久志の中学校を震撼させる事件が起きた。夏休みの中頃であった。他校から今春赴任してきた新任美術教師が、美術室で首を吊った。久志が第一発見者だった。  ただ久志はそれに驚愕や悲嘆を寄せるわけでもなく、粛々と事務処理をこなした。死んだ教師の書類整理や報告書類を作成した。教師は二十五であった。久志と同い年だった。きっと彼女は、あの教育という空間が機能不全をきたした平成時代を、自分と真逆の立場で過ごし、あの時に死ねなかった人なのだと久志は思った。  県教育委員会は事件処理に躍起になった。全職員に山のように夥しい枚数の連絡書類を回覧させ、その口裏を縫い合わせ、メディアに囲まれた記者会見では決して教育現場には非が無いことばかり何度も強調した。実際、そういう証拠は隠蔽しようもなにも、一つもなかった。久志はテレビでそれを見た。彼らは疑いようもなく久志と同じような悪人だったが、それはもうどうでも良かった。  久志はもう彼が負っている単純な罪と罰以上に、もっと重要な罪深さを自覚していたのである。つまり、世界をこう認識するということ。こう認識する限り、罪は罪という概念を踏み超える前に限界をきたすだろうということ。罪は罪に対して罪を犯すことが出来ないということ。そうして罪が限界をきたしたときに、久志は蘇るだろうということ。  ああいう自分は善良だと信じている人間たちに、久志は今では妙な親近感を感じる。今ではどうにかしてそれらに同化しようと欣喜雀躍(きんきじゃくやく)している。  考えてもみれば、彼らがあれほど自若に、当然のような顔で生きていられるためには、初めから彼らは罪の認識の外側にある存在でなければならず、つまり彼らの世界には、罪というものが最初から存在していないのだ。久志もそうであらねばならない。だがそうあらねばならないと願うのは、彼が今まで己の罪を自覚すればするほど、この世界では何故か彼は無罪であるかのように、過剰に労わられ、あらゆる認識から解放されない不条理さのためなのだ。だからもし久志が己の無罪を乞い求めず、認めようとしなければ、優斗や夏紀や犬や猫という折角の楽園も、みな久志の目の前で、波にさらわれる波打ち際の作りかけの砂の城のように、もう少しのところで崩れ去ってしまうだろう。それは嫌だ。 『今の時代、おかしいことは正常で、おかしくないことこそ異常なのだ。だからこそ、僕は異常を目指さなければならない』  久志はそうして罪人に投げつけられて地面に落下した、血肉のこべり付いた石を拾い集め始めた。誰かを流血させ肉を裂いたのも久志であるし、また流血し肉を裂かれたのも久志なのだ。他人に投げつけた石ころを使って、自分自身を穿(うが)っているこの穴を埋めることは可能だろうか?  久志はペットショップを目指して歩いていた。
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