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 久志にこういう変化が生じるとき、久志以外にも変化が生じるのは不思議なことではない。夏紀の意識の変化がそれである。  夏紀の書棚の辞書によれば、久志など言うまでもなく不甲斐ない、どうしようもなく無責任な大人に過ぎなかった。が、いつしか午後になるとふらっと店にやってきて、そそくさと店の裏庭に回り、仔犬の世話をしている姿を夏紀はじっと観察していると、彼に在るべき悪印象は、これといった順番も踏まないで、穏やかな朝日に晒し出される霧のように、夏紀の心の中でゆっくりと温められて、気付けば晴れてしまっていた。  大体久志を見るよりも、仔犬を見る方がことは明らかであった。仔犬は日に日に健康になる以上に、久志を愛し、世話していた。仔犬と戯れている久志には、厚顔無恥とは正反対な、自重され押し殺された絶叫が沈澱しているのが、彼女には直感的に分かってしまう。  それが彼なりの改悛の証であることまで夏紀には分からないまでも、それが彼の悲痛の印象で見るに堪えないのだった。それには絶対に直接触れてはならないが、だからといってそれに全く関与しないというのも、夏紀は人間として女として、残酷に感じたのである。  それはまた夏紀の抱える哀しみなのだった。 「こんなに可愛らしくて、愛おしいなんてね」と、久志は仔犬の頭を撫でながら同じようなことを何度も何度も独り言ちた。まるで一晩で十歳(とし)を取った人のように。  店の狭い裏庭で餌をやり、仔犬が湿った舌を出して意気揚々と駆け回るのを見下ろして微笑む久志のために、自分まで笑みを許してしまうのを夏紀は悔しく感じ、それを隠すのは容易くなかった。  気付けば夏紀は、来る日も来る日も、夏の蒸し暑い平穏な午後の芳醇が、四坪にも満たない店裏の小庭の、月桂樹や榊の植木の根元や、無造作に転がった石ころと土にしみ入り、完全な調和がそこに小庭以上の何らかの空間を成すときには、ついぞ仔犬の世話をしに現れる久志が欠けていてはならないように思われるし、それを夏紀は拒まなかった。  夏紀にとっては、女々しくて放っておけない美男とか、自分が欲しいと言えば何でも買ってくれる醜男(ぶおとこ)とか、自分を心の底から愛してくれる男とかいうものに何一つ甘い理想を抱かなかった。彼女の絶対的な男の価値は、常に純粋な仔犬に相似した、野性の直感がごく自然に証明してくれるだけだったのである。  そうしているうちにも夏紀の元へ足音を忍ばせて近寄ってくるもの、それは決して夏紀の目には見えないが、目ではない別の何かで捉えることが出来るような気がする。或いは捉えようと手を伸ばせば離れて行ってしまうもの。(あたか)も夏紀は、月光によって真夜中の地面に象られているはずの自らの影の長さや形を、ひとつの誤差なく、手探りで測ろうとした。  月に我々の手は届くはずもない。ならば我々はせめて月の投げ写す影の美しさから、月の美しさを想えばよいのだ。 「お兄さんさ、意外と真面目というか、根気強いんだね」  夏紀は店の裏庭の倉庫に荷物を運びこんで、一息ついて久志に話しかけた。小庭の隅にしゃがんでいた久志は、傍らの仔犬と一緒にきょとんとした。
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