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「お兄さんも私の嫌いな大人だと思ってた。無責任で、毎日テキトーに生きてる、子供がそのまま大人の皮を被ったみたいな奴、ていっても、何のことだか分からないだろうけど」  久志は薄いクロワッサンのような垂れ耳の仔犬を胸元に抱き上げて立ち上がった。ラブラドールの体毛が、夏紀の金色を孕んだ癖髪をかき分けて落ちてくる日光に湧昇し、黄金色に輝いた。その輝きの只ならぬ美しさのために、かえってそれは少女の内面の暗がりを象徴的にほのめかした。 「私もこの子と同じ。捨て子なの。ずっと養護施設で育ったから、本当の親も知らないんだけど。台風の夜の駅のロッカーに、へその緒が付いたまま入ってたんだってさ。馬鹿みたい」  久志は闃然(げきぜん)とした。  久志は沈黙という同調によってそれを受け流すべきなのか、そうでなければ何か慰めの言葉でもかけてやらねばならない。  だが、それが出来ない。  夏紀の口から捨て子と聞いたとき、久志が真先に連想したのは、中学生二年生の夏休みの終わりの、中絶手術を隠すために転校したという噂の流れた、あの家庭環境の悪い女子生徒なのだった。  何たる報いであろうか。慰めはもう辱めに他ならなかった。  すると久志にはこの表情まで曇った少女が、立派に成長して彼の罪を咎めに来たかのように思われてきて、久志は忽ち不安に駆られ、ぞっとした。  何か、それはきっと思い違いに過ぎないのであろう。だが恋愛に於ける一目惚れが、得てして若い心に生じる苦い思い違いだというならば、他者とのどんな出会いも、それが崇高な尊いものへと発展していくことも、恐らくはこういう思い違いから始まるのだ。久志はこう思い違うことに気持ちの悪さを痛感しながらも、夏紀のことを、ただの他人だとは思ってはならない気がした。  少し気落ちしたかと思えば、夏紀は仔犬を見つめているうちにみるみる気をとりなした。枯れた花が水を浴びて蘇るように。  夏紀の目は麗しかった。  夏紀は久志に言った。 「私にも抱かせて」 「え、えっと」と久志はどもってしまったが、  夏紀は結局半ば強引にレトリーバーの仔犬を取り上げた。  久志は気後れしつつ、 「慣れてるね」と言えば、 「当たり前でしょ。馬鹿にしてる?」と白い眼をして返すのが、もはや彼女なりの礼儀なのだ。 「そういえば名前まだ決めてないの?」 「うん」 「そ。ま、お兄さんが決めないなら、私が考えるか。この仔柔らかくていい気持ち。もちもちしてるからモチね。決まり。お兄さんは、文句ある?」 「良い名前だね」  香ばしいパン粉をまぶしたような細かい光を散らす金毛の仔犬の頬に、その柔らかい頬をすり寄せながら、夏紀は嬉しそうに久志に目配せした。それは小枝や綿毛や羽毛で組み立てられた巣の中で、明日の飛翔を予感させるまだ羽毛の生えた雛の目だった。 「ああほんと、馬鹿みたいな話だけど、それでも生きて行かなくちゃ。お兄さん、高校とか、大学ってどんなとこ? もし知ってたら、ずっと黙ってないで教えてよ。私中卒で働いてるからさ、そういうのなんにも知らないんだよね」  少女の頬は、薔薇色に染まった。
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