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 久志は異様な惨状に呼吸が苛立った。鼻息が誇張的になり、瞼が降りず眼球がぴりぴり痺れてきた。動悸もした。  ショウウインドウの前に、恐らくペンキが入っていただろう汚れたブリキ缶が、無造作に投げ捨てられていて、その残滓を辺りに散らして転がっている。そのペンキをどうにか洗い落とそうとして汚れた水と洗剤の泡で満たされたバケツもその傍に放置され、その泡だらけの水面には、潰れたスポンジが油脂のようにゆらゆらと浮かんでいる。  久志が呆然と店の入口で突っ立っていると、店の裏へ続く狭い路地から左拳で目元を覆い隠した夏紀が現れた。その口元は悔しげに歯を食いしばっている。半袖から出た小麦色のつややかな両腕は水浸しで、エプロンの前掛けは病人の喀血のように赤黒く染まっている。 「何があった」  その一言が、久志の口から出てこない。  夏紀がだらんと腕を下したとき、久志は彼女と目が合った。夏紀の双眸からは感情の絵筆が、まっさらな美しいキャンバスに二条の透明な傷のような描線を流していた。 「来てたんだ」  夏紀の刺々しい声が久志に突き刺さってきた。  夏紀の双眸から溢れ出る透明な血と拒絶の証は、彼女と久志を包むように暗い空間を広げ、しかしその領域に陽炎のように揺らめいて蔓延(まんえん)する無音は、決してその悲壮の絵画を無言で興じていられるほど、耽美的な静寂たりえないのだった。 「……ねえ。お兄さんには私がどう見える? 善人? それとも悪人?」  そう言い捨てて久志を一瞥すると、夏紀はふらふらと前屈みにバケツの持ち手を握り、それを持ち上げてまた振り返った。 「善人? それとも悪人……?」  久志は輪唱するように呟いた。  彼女の去りがけの問いは明らかに意味も動機も何もかも破綻していたが、しかしそれよりも最も重要な必要を久志は欠いていた。彼女の問いが問いであることを否定できる豊かな包容力に溢れた感情だとか、もしくはそれが問いであると独断できる偏った思想の、久志にはその両方が致命的に欠落していた。  久志は困った。だが彼のもとには生乾きのペンキの鼻孔にひりつく悪臭と、かつてない沈黙が残されただけである。これだけでもう、久志が味わっていたはずの、あの幸福の酩酊のような記憶は色を失い、それどころか悍ましい色の腐敗をそこかしこへ広げ始めた。  店の入り口のドアが開いた。 「悪い時に来たね」  優斗はそう言ってため息を吐いた。そのため息はどこか慣れたものがあり、殆ど動じていないという顔をしているのが、何も知らない久志には不公平に感じた。何も知らされていないということが、怒りにさえ感じた。 「小滝くんにはもっと早く話しておいた方が良かったね。まあ正面じゃあれだから、中で話そう」  店内はしんとしていた。冷房の空調音と、犬と猫の唸り声と鳴き声と寝息と、あの微かな動物の臭いの沈澱が、やはりこの店を近寄りがたい陰鬱な、他所とは明らかに異質な空間にしていた。  優斗と久志は、レジカウンターの内と外に椅子を並べて座った。
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