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 平成年間はその全体を教育の網に通して俯瞰するに、校内いじめが一気に多様化した時代だった。学校という家の中で、親は親でなくなり、教師は教師でなくなり、生徒は生徒でなくなる時代の幕開けだった。保護者たちは経済的に困窮して家庭の責任や威厳を保てなくなり、教師たちは個性尊重教育の下には教鞭など全く無価値であることを思い知り職務放棄した。生徒たちはそういう自己保身的な大人たちに対して暴徒化していった。  昭和年間の学生運動は平成年間に新しい生を受けたが、ずっと早熟で無知過ぎたのだ。  暴徒は権力者に対してもっとも過激に反応するが、自分と同じ身分にも関わらず暴動に与しない同類たちには、より過激に過剰に反応する。  非行少年と非行少女たちは手を組んで、教師を案山子のように扱い、暴動の指導者にまつろわぬ同級生を家畜や奴隷のように扱うようになった。  久志もある時期までは暴徒の一員で、しかし教養を酷く欠いていた。中学を出て、高校を出て、どうにか大学新卒で滑り込んだ三流企業で心を病んだことをきっかけに、その精神崩壊の過程を今さら遡ってみると、それはきっと過去の罪の応報なのではないかと思うようになったのである。陰陽の暴力も、性暴力も、かつてそれらはすべて自由の旗の元だった。だが自由の御旗は全て贋物で、それどころか実は悪魔が変身した姿であり、悪魔は十年を経てようやく、その代償を久志に求めてきたのだ。  ある日曜の昼下がりである。殺人的な熱気は二週間滞りない。  午後休の久志は、一時半に学校近くの心療内科の定期診察の予約が入っていて、丁度その帰りに市内の御寺町(おてらちょう)を歩いていた。  御寺町は久志の中学校学区内の一番南端にあたる寺院区の通称である。学区の中心地を久志の勤務する市立中学校と市の中心街とするならば、御寺町の位置はその南を東西に貫流する月山川(つきやまがわ)を更に南に渡った先にあたる。  御寺町はつい先日夏祭りを迎えた。春には桜並木が彩る月山川の河川敷では、二百発あまりの花火が打ち上げられ、夜空を見るために五万人の観衆が市内外から押し寄せた。熱帯夜はその喧騒で熱気の最盛を極めた。  その御寺町の西に沿うように、桐箪笥や本畳や竹人形といった伝統工芸の店も軒を連ねている。月山川の南の川縁(かわべり)には旧花街の微かな名残もみとめられ、御寺町は旧文化の静謐(せいひつ)の避暑地であろう。御寺町をさらに南下した学区外に久志の居住するアパートはあるので、月山川の北側の市街地に所用があって歩いて帰る際には、御寺町を通るのが最短なのだった。  久志は本当ならバスで帰るべきなのに、それを逃してしまった。この田舎の市ではバスを一本逃すと、次の便は一時間二時間後である。それを待つくらいなら歩いたほうが遥かに早い。  奈良時代から平安時代にかけて御寺町の近辺には国府が置かれた。南北朝時代には代わって守護所が置かれた。戦国時代にもなると、守護所在地は商業農業信仰の要所としても発展し、一万石といえども守護領として越前朝倉氏の庇護下にその隆盛と栄華を極めた。織田信長による浅井朝倉両氏討滅の後も守護大名の旧領は安堵された。隣接市には織田(おた)神社という古社があるが、その地は織田氏発祥の地であるという。  御寺町にその遺構を伝える月山府中城(つきやまふちゅうじょう)は、織田氏家臣によって築かれた、二層の天守を誇る本格的な名城であったという。月山川もその外堀の一部であった。  府中城は一向一揆衆鎮圧の際はその本拠とされた。戦国の絢爛(けんらん)たる名所として名高い府中城下は、戦乱の世を越えて徳川親藩領の一部となり、江戸の一国一城令下に於いてもその存置を特例的に赦され続けたが、明治新政府によって遂に廃城されてしまった。よって現在ではその見事な石垣も内堀も外堀も、時間の土に埋没されてしまって跡形もないが、その寺社区画だけは今でも、維新後の廃仏毀釈を逃れてきた寺院が、由緒ある真宗や日蓮宗や真盛宗の分院を中心に連なっている。  夏にもなると、御寺町の清閑たる松並木は数世紀の趨勢(すうせい)をほのかに薫らせてきて、その上枝(ほずえ)にわだかまる清涼が、町中を流れる小川や公園の小池や空地の草花に黒い網を落とすのだった。その綿密な陰翳は、数百年いや数千年も前から、ずっとそこに(かげ)っているように思われるのである。  また御寺町中に敷かれた石畳の情緒ある景観も壮観である。この地方は冬に雪がよく降る。晴れた冬の朝に空から見下ろした御寺町は、その石畳の黒と雪の白の対照が造る水墨画のようで、美しい。
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