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 石畳の上を一台のセダンが走り去った。後ろから熱風が通り過ぎた。  久志は今そこへもし身を投げていたらどうなっていたか考えた。  上手くいけばどんなに車が遅かろうが、胸や頭を強く打ちつけて死ねるだろうが、下手をすれば死ねないで生き続けることになったかもしれないと思うと、久志は怯えてしまった。  今朝も久志は悪夢に飛び起きた。先日の体育館で思い出した悪夢はその後もまだ尾を引いていた。悪夢はもう過去の悪行の数々を殆どそのまま久志に知らしめて、一審無期懲役から一転して再審死刑という、残酷な量刑変更を言い渡すのだった。  中学時代の久志は、少なくとも善良ではなかった。というよりも、獣のように善悪を知らなかった。久志は自分が悪夢に苛まれるのは仕方がない、それが自業自得なのは知っていたが、それにけりを付けようとすると、大事なところで脚が止まってしまう。  呆然と歩き続けているうちに久志は、白や黒の御寺町には場違いな赤と青の交互に塗られた洋風のオーニングテントが、軒先から石畳に向かって突き出している商店を見つけた。久志は少し離れたところから店を眺めた。テントの色は褪せていて、印象的な入口正面のショウウィンドウの文字飾りが古臭い、小体な煉瓦壁の商店である。入口近くには邪魔にならないように段ボール箱やら籠やら積み上げられているし、ショウウインドウの内側は半透明に濁って見えない。多分開店してはいるが、片腕で細い組紐にぶら下がっているような、或いは片脚で剣山の上に立っているような、どこか不安定なぎこちない店構えである。  連日にわたる猛暑のために、店先の花壇の花はしおれてうなだれているが、店の影や寺の松の影が重なり合っているので、涼しくはないがそれほど熱くはない。その店の前に、少女が静かに暑さに耐えるように屈んでいるのが見える。  少女の顔は久志の側からはよく見えないが、緩やかな癖髪を結んだ後れ毛が、夏の暑気と汗を孕んで黄金の輝きを(なび)かせている。前屈みな灰色の半袖シャツの背筋は暗く、折り畳まれた濃紺のジーンズの脚が石像のように重たい。少女がこの店の店員であることを示す青いエプロンの裾が、誇らしげに盛り上がった小さな胸を隠しながら、単調な二の腕の運動を感じて波立っている。  少女は(あたか)も清涼感に満ちている。その足元には黒い水痕が絵筆のように一掃きされて、熱せられた石畳の方へ絶えず流れていた。少女はショウウィンドウの汚れを水で洗い落としている最中のようだ。濡れた小さいスポンジで畳くらいの広さのガラスを擦っては、また蛇口から繋いだホースの先をそれに向けて、辺りに細緻な水飛沫の虹色の煌めきを散らすのを繰り返し、透明な指先が五本の光の線をしきりに描いている。  久志はこんな少女の可憐さに暑さを忘れ、心を奪われていたが、 「やあお客さんですか」  と丁度入口から外の様子を見に出てきた男店員にふいに話しかけられて久志はびくっとした。少女は久志に見られていることに気付いていたが、敢えて結び髪のうなじとジーンズの尻を向けて挑発的に彼を無視し続けていたので、しむけられて不審者役を買って出ていることに気付いた久志は当惑した。  小さく気弱になった久志は胡麻を()る卑屈な笑みを浮かべ、 「いえ、ぶらっと立ち寄っただけで……」と言いしなに店員の顔をちらっと窺うと唖然としてしまい、継ぎ句と去りどきを失った。 「そうですか。でもこう暑いし、折角だから入って少し見ていきませんか」  店員ははにかみながら気さくにそう提案した。
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