第三章 人の心猫知らず、猫の心人知らず

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 父上氏は足にじゃれつくぼんちゃんの首輪をそっと掴むと、では、と門扉を開いて中に入る。 「お礼をしたいんですけど、この時間だし……」 「いえいえ」  口ごもる父上氏におれは両手を振ると、ではと帰路につく一歩を出した。 「ちょっと待ってください。杏、これをあのお兄ちゃんに」  おれを呼び止めた母上氏の姿が玄関に消えたかと思えばすぐに戻ると、持ってきたスリッパを杏ちゃんに渡した。 「あ、いえ、お構いなく」  遠慮するがぱたぱたと駆け寄ってきた杏ちゃんは、「どーぞ」とおれに足もとに父上氏のものと思しき黒いスリッパを置いてくれた。 「どうぞ、どうぞ遠慮なく」  口を揃える母上氏と父上氏の迫力と、杏ちゃんの邪心のない煌びやかな瞳についおれはスリッパに足を入れる。足を包むスリッパの温かさにおれは内心でほっとする。 「こんなのがお礼になるとは思えないのですが。いっぱいあるのでお家に着いたら捨てるなりなんなりお好きになさってください」  父上氏の言葉に背中を押され、ありがとうございますと礼を言ったおれは遠慮なく厚意を受け取ることにした。実際、家までの数十分、裸足で帰るのは辛いなと思っていたところだし、近々、スリッパを返すのを口実にここに来ることもできるのだし。  帰り道、ぺたぺたとスリッパが立てる音を聞きながらおれは考えていた。まったく想像できないのだ。父上氏も母上氏も、そして杏ちゃんもみんなきっといい人なのだと思う。だから、ぼんちゃんが訴えるように相棒の猫を虐待する構図がどうしてもおれの頭の中に浮かんでこないのだ。  どうぞ、と母上氏──長谷川さんが紅茶を出してくれた。  白く薄いティーカップは軽くて高級そうで、琥珀色の紅茶は砂糖をいれていないのにどこか甘く感じた。広いリビングにでんと鎮座している革のソファーは座り心地が良く、壁際に設置されたバカでかいテレビは最新型だ。家具もサイドボードに並んでいる食器もどれもセンスがいい。  窓際にはペット用の大きなクッションがあり、ぼんちゃんがおもちゃのイルカを齧りながらちらちらとおれを横目で見ている。早く本題に入れと急かしているようだった。 「わざわざよかったんですけど」  L字型のソファーのはす向かいに座り、長谷川さんは恐縮しながら近所のスーパーの袋にいれていたスリッパを受け取った。 「いえ、寒かったので助かりました。ありがとうございました」  おれはもうひと口紅茶を飲む。実際のところ、このスリッパのおかげで無事に帰れたようなものだ。家に着いて足の裏を見てみたら、百円玉ほどの大きさに皮がむけていた。 「花澤さんは……、よく深夜にああいう恰好で外に?」  ぼんちゃんを無事にここに連れてきたおれは恩人ではあるのだけど、深夜の町を裸足のスエット姿で歩いているような奴は冗談でもお近づきになりたくはないだろう。長谷川さんが警戒するのも無理はない。 「ああ、昨日はたまたまなんです。えっと、うちで猫を飼ってるんですけど、そいつが急に玄関から飛び出したので慌てて追いかけていたら、ぼんちゃんに会ったんです。まったく、猫って奴はどうして隙あらばああして外に出たがるんですかね」  おれは今朝からずっと練りに練ってきた言い訳をまくし立てる。あら、と納得してくれた長谷川さんだが、今度は心配そうに眉を寄せる。 「それじゃあ、猫ちゃんはどうしたんですか? うちの犬が探す邪魔をしちゃったんじゃ?」
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