第一章 猫のしっぽを追いかけて その2

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第一章 猫のしっぽを追いかけて その2

 午前零時、町の空気は冷たい。  十月はもう冬に近い季節なのだと実感するとともに、シロが心配になる。シロはまだ子猫だ。こんなに寒い夜、外にいて風邪でもひいたらおおごとだ。 「シロ、シロシロシロ、シロちゃーん」  おれは誰かの家の生垣の隙間に顔をつっこんでそっと呼びかける。部屋では元気いっぱいに走り回っているシロだが、外猫でいた時期は短いので人通りの多い広い道は怖がって避けているのではと、昨日からずっと脇道を中心に探し回っている。 ネットで調べたところ、猫の行動範囲は思いのほか狭く、大半は自宅から半径百メートル以内のところをうろうろしているらしい。 そのことに勇気づけられて、朝からずっと探しているのだが、路地裏にたむろしているのは三毛や黒、サバに茶トラなどなどで、シロのような気品のある白い毛並みの猫はいない。  生垣の暗がりの向こうから、窓ガラスの鍵を開ける音が聞こえてきた。どんな理由があっても、深夜に他人の庭の生垣に首をつっこんでいる男など不審者以外のなにものでもない。  眠らない街、新宿や渋谷にほど近い豪徳寺とはいえ、ここは住宅街。深夜にうろうろしていたら警察官に職務質問されかねない。気が弱いおれのことだ、やってもいない罪でも告白してしまいかねない。  今日はここまでにしよう。そそくさとかがめていた体を起こし、おれは来た道を戻る。アパートまでの数分の道のりも、おれは家と家の隙間や脇道の暗がりにシロの姿を探す。やがて、街灯に照らされてもなおくすんだ様子で建っているおれのアパートが見えてきた。 「シロ?」  見間違いかと思った。階段の上、おれの部屋のドアの前に小さな白い塊があった。駆け寄ると確かにシロだった。 「シロちゃん」  錆びついた階段に右足を乗せたその時だった。シロは立ち上がると階段を下りてくる。おれを迎えに来てくれたのかと両手を伸ばすが、ぬるりと体を動かしておれの指先を避けたシロは、足の間をくぐって暗い道の向こうに行こうとしている。 「シロ!」  慌てておれは踵を返す。その気配に気づいたのか、シロの四本の脚の動きが早くなる。 「シロちゃん、待ちなさい」  命令形の言葉も通用しない。シロは白いしっぽをピンと立て歩き続ける。おれは小走りにそのしっぽを追う。  しょせんは子猫、短い脚では早く走れまい。すぐに捕まえられるだろうと高をくくっていたが、背中に目でもついているのか、掴もうとするたびにシロはわずかに加速し、おれの指は空を切る。 「シロちゃん、止まらないと朝ごはんヌキですよ」  たった二カ月一緒に暮らしているだけなのに、シロは多くの日本語を覚えた。真っ先に置覚えたのは『ご飯』で、この言葉を口にすると、たとえ食べたばかりだとしても、目をキラキラ輝かせておれの前でキチンと座る。 だが、今日のシロは耳を動かしてちらりとおれを見ただけでとことこと前に進み続ける。ついてこいと言わんばかりのその動きに、捕まえるのも忘れておれは後に続いてしまった。  やがてシロは角を曲がり、線路沿いの道に出た。迷いのないその足取りは、まるで確固たる目的地でもあるようだった。だが、シロが外猫だったのは生後一か月までで、その時は立ちあがってもすぐに転がってしまうくらい頼りない足腰で、この町を歩き回れていたはずがない。 それなのにこの街の隅々まで知っているかのような歩きっぷりはどういうことなのか。愛娘の成長を嬉しく思う反面、どこか狐につままれたようだった。  いや──。  腕がわずかに粟立つ。この道をしばらく歩いて、いくつか角を曲がればなにがあるのかを知っている。大学に通うために上京してすぐ、この町を歩き回った時に観光した場所がある。この土地の名前となった有名な場所だ。  まさかと、半信半疑のおれをよそに、シロは最短距離を選んでいるかのように角をいくつか曲がって住宅街に入った。しばらく進むと左手には延々と続くコンクリート塀が現れる。しんと静まり返った塀の向こうから、風にそよぐ草木の音と共に、線香の匂いがぷんと鼻腔をくすぐる。 小さなしっぽをふらふら振りながら歩いていたシロはついにその足を止めた。 「マジか……」  唾を飲み込むごくりという音がやけに耳に響く。そのくらい、重い静寂がおれを包んでいた。ほんの数分の離れただけで、これまで歩いてきた住宅街よりも気温も低いような気がする。それは、目の前の光景に怖気づいているからなのだろうか。  遠くの街灯のぼんやりとした白い光が、鎮座する見上げんばかりの門を浮かび上がらせている。『山』の字のように、大きな屋根を掲げた背の高い門の左右に控えるように、半分ほどの高さの門がある。暗くて読むことができないが、正門の屋根の下にある扁額には『碧雲関』と書いてあるはずだ。  その昔、鷹狩りの帰り道、殿様が歩いていると荒れた寺の前に猫がいた。その猫は右手をあげて殿様に手招きをする。招かれた殿様が寺に入ると途端に雷雨になった。猫のおかげで雷雨を避けられ、住職のありがたい話を聞くことができた殿様は大いに喜び、荒れた寺の再興を支援することとなった。  おれは猫のおかげで復興した豪徳寺の前にいる。その山門の前に、シロは二本の前足をきちんと揃えて座っている。もしかしたらおれは、狐ではなく猫につままれようとしているとでもいうのだろうか。  いやいやいや、とおれはぶんぶんと首を振って湧き上がって来そうな嫌な想像を振り払う。なにかの間違いだと自分に言い聞かせたその時──。 「シロちゃん……」  唖然として、つい口がぽかんと開いてしまった。信心深い参拝客がそうするように、シロは山門に向かって深々と頭を下げたのだった。  すると──。 「マジで……?」  語彙が限りなく貧弱になっている。  ぎりぎりと音をたててゆっくりと正門の扉が開いていった。  どうぞ、と言わんばかりの顔でシロがおれを見上げている。躊躇していると、立ち上がったシロは山門を通って境内に入っていく。仕方なしについて行くが、木の扉をくぐる時にちらりと左右を見回すも誰もいない。  いやいやいや、とおれは再び首を振る。暗くて見えないだけで、寺の誰かがおれが立っていることに気づいてこんな夜中にも親切に開けてくれたのだ、そうであるに違いないとおれは、「ありがとうございます」と門の裏の暗闇にむかって頭を下げてシロを追う。  空に浮かぶ半円の月の光がうっすらと境内を照らしている。目を凝らしながら石畳の道を進んで行くと、黒く丸い物体が行く手を阻む。狛犬が鎮座している香炉で、確か三体の餓鬼が支えていたはずだ。  シロはその脇を通り、さらに奥に進む。すると大きな建物が現れる。仏殿で、これぞ日本家屋といった形の屋根を掲げている。くるりと方向を変えたシロは左手の道を行く。 「…………」  両の手で目をこする。鼓動が早くなっていくのがわかる。先にある暗がりが、より濃くなっているように見えた。足が止まる。振り返ったシロがねーんと鳴く。どうしたの、とその顔は言っている。  なぜ、どうして、なんで、これはいったい、まさか、いや、でも、など混乱した頭にとりとめのない言葉が湧いては消えていく。それでもシロがおれを陥れるはずがない。きっと、なにがしかの理由があって、おれをそこに連れていきたいのだと自分に言い聞かせる。もしかしたら面白いおもちゃを見つけたから、などかわいい理由なのかもしれないし。  足がすくむ。  だけど、愛娘にみっともないところを見せるわけにはいかない。よし、と気合をいれておれは一歩を踏み出す。再び歩き出したシロは、すぐに右手に折れて門をくぐる。いっそう闇が濃くなり、重ささえ感じるようになった。 だが、目の前の社はくっきりと浮かび上がり、柱の木目のひとつひとつも数えられそうだった。石造りの香炉を越えたシロは、鈴から垂れ下がる鐘紐の下に座ると頭を垂れた。 「え……」  境内を満たす暗がりに緑色の光の粒が二つ現れた。光の粒は四つ、六つ、八つと、次々に増えていく。やがておれは闇と緑色の光の粒に囲まれていた。屋根の上、賽銭箱の下、香炉の中、植栽の陰に光がある。 「猫?」  その光に見覚えがある。夜、トイレに起きると、布団のなかからシロがおれを見ている時がある。そのシロの二つの瞳は、今、おれを取り囲んでいるのと同じ、緑色の光を帯びている。間違いなくおれの周りにいるのはたくさんの猫だ。 世田谷中から集まっているんじゃないかと思うくらいの大勢の猫たちはただ黙って座り、おれとシロのことを見ていた。シロを飼うくらいだから猫はもちろん好きなのだが、こうもたくさんの瞳に囲まれていると恐怖と不安しかない。辺りを見回していたおれは、ふと気配に気づき社に視線を戻す。 不機嫌な顔をした三毛猫が引き戸の前に座っていた。左の耳は黒、右は茶色。饅頭を上から潰したような平べったい顔の左半分は茶色で右は白い。体はシロの四倍ほどの大きさはあるが、かわいらしさでいったらシロの完勝だ。 「じろじろ見てんじゃないよ」  顔と同じく不機嫌な女の嗄れ声が聞こえた。人生の酸いも甘いもかみ分けたような年期の入ったおばさんの声だ。 「え?」  どこにいるのかと探すもここにいる人間はおれひとりのようだった。 「どこ見てんだい?」  声は足元から聞こえてくる。だが、おれの前にいるのは目つきの悪い三毛猫だけだ。緑がかった瞳をおれに据えたまま、三毛猫は口を開いた。 「ずいぶんと勘の悪い男だ。これじゃあシロも苦労するわけだね」 もしかして、目の前のブサイクな猫が、おれに話しかけているのか?  まさか!
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