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第一章 猫のしっぽを追いかけて その3
耳の穴に指の先をつっこんで溜まっていた耳垢をこそげとる。ひときわクリアになった聴覚が境内の木々を揺らす風の音を捕えるが、いま、目の前の猫は不機嫌な顔でおれの顔を見ているだけで、さきほどのような女の声は聞こえてこない。
さっきの声はただの空耳で、おれはシロに連れられて少しばかり規模の大きな猫の集会に案内されただけなのだ、などと考え始めたところで、三毛猫はピンク色の小さな鼻からため息のようなものを漏らすと再び口を開いた。
「飼い主のあんたが不甲斐ないから、わざわざあたしんとこに泣きいれに来たんじゃないか。『どうしよう、アタイのせいで勉は貧乏になっちゃったんだ』って。そしてね、こうも言ったんだよ。『アタイはいいから、なんとかして勉に腹いっぱいおいしいものを食べさせて』って。泣けるじゃないか」
「え……?」
確かにおれの名前は花澤勉だ。なぜこの猫がそれを知っているのかと不思議に思うが、この会話が単におれの脳内で俺自身によって展開されているのだと考えると腑に落ちる。
日頃、小説のネタばかり考え続けていると、どうしても思考がファンタジーに寄っていく。なにしろ処女作が猫と狐のばかしあいの話で、次回作もそれに沿った話をということで進んでいるためか、日常の些細な出来事を針小棒大に解釈していき、ちょっと不思議な話を構成していく癖がついてしまっているのだ、きっとそうなのだと納得する。
シロが言ったという健気なセリフは、いわゆる『人情物』というちょっと泣ける話のほうが編集者や読者のウケがいいかもしれないと、プロットをそっち路線で考えているから出てきたものなのだろう。
だが──。
「現実と妄想の区別がつかないようだからあんたの小説は売れなかったんだろうし、新しい企画も通らないんだろうさ。うんうんと唸ってばかりで他になんにもやってないっていうじゃなか。現実をちゃんと見て人というものを理解しないといい作品なんか書けやしないっていうのに」
猫のくせに耳の痛いことを言ってくれる。でも、いま目の前で進行していることを現実だと受け入れろというほうが無理がないか?
しかもなぜ、三毛猫はアパートで七転八倒していることを知っているんだろうと疑問に思っていると、気まずそうにシロがそっぽを向いているのが視界の隅に見えた。
シロが密告したのかと納得しそうになるが、それだと三毛猫が人の言葉を話すのだと認めることになる。それは良識ある成人男性としてはまずい。
ふと思いついて三毛猫に手を伸ばす。抱きかかえてこいつがにゃんと鳴くのを耳にすれば、猫が言葉を話すはずがないと合点がいくはずだ。
「気安くさわるんじゃないよ」
しゃーと威嚇して、三毛猫はおれの手の甲をハタハタとたたく。
「いてっ」
慌ててひっこめ手の甲を見るが、勢いの割に痛くない。もしかしたら寸止めだったのかもしれない。
「あたしを撫でていいのはナオさんだけなんだからね」
眉間に皺を寄せて、三毛猫はおれをはたいた右足をなめている。
「ごめん、ちゃんとにゃんと鳴くかどうかを確かめたくて」
あまりの剣幕に謝罪をしたうえに言い訳までしてしまった。三毛猫が再びため息をつく。今度はなんの声も聞こえてこない。その代わり、思案するかのように視線を宙にすえたまま、首を右に傾けている。
「そうだ」
人ならばポンと、手を叩きそうな勢いで三毛猫が言う。
「あんたが知らないことを言い当てれば、あたしが言葉を話すということも、シロがあんたのことを心配しているということも信じるはずさね」
人格や思考というものは、その人がこれまで経験を重ねてきたことの上で成り立つものだ。おれが経験せず考えもしなかったことは、脳のひだを一枚ずつめくって探してみても、それはどこにもないということだ。
だから、おれが知らないことを三毛猫が口にすれば、それはこいつが本当に言葉を喋っているという証明になるのだ。
愕然としてしまう。言われてみれば理解できるが、こんな発想はおれの頭の中にはなかった。
「甚平」
左手の暗がりに顔を向け、三毛猫が言った。
「へい」
苦み走った、とでもいうのだろうか。中年の渋い声が聞こえてきたと思ったら、いったいどこに潜んでいたのか、ずんぐりとした黒猫がいきなり現れた。大きさは三毛猫と同じくらいだろうか。体のわりに顔はしゅっとしている。
「今日来たあの子の絵馬を持ってきておくれよ」
「へい」
慇懃に頭を下げた黒猫は立ち上がり、音もたてずにおれの前を横切って入口のほうに向かう。黒猫の後ろ姿を目で追っていたおれは、三毛猫の咳払いに顔を戻した。
「三丁目の目黒瞳ちゃん。飼い猫のアレックスの病気が治りますようにと、絵馬を奉納しに来たんだよ。いい子だよ。アレックスは──この子に飼われるまでは別の名前なんだけど、この際、それはいいね──長いこと一匹でいたものだから人とつき合うのが苦手なんだよ。それでも瞳ちゃんは根気強く行き倒れていたアレックスを看病しててね。頭が下がるよ。みんな、この子みたいに猫に親切だったらいいんだけど……」
三毛猫は目を細めてしみじみと言う。三毛猫の話を聞いていると、つま先にこつりとなにかが当たる。いつの間に戻ってきたのか、甚平と呼ばれる黒猫が足元にいて、その鼻先に絵馬が転がっている。足に当たったのはこれだろう。
「読んでみな」
三毛猫に促され、絵馬を拾ったおれの腕がざわざわと粟立った。
『アレックスの病気が治りますように』
絵馬には拙く歪んだ黒い字で、そう書かれていた。文末には今日の日付と住所、そして目黒瞳という名前がある。
おれが豪徳寺に来たのは四年ぶりのことだし、招福殿の門をくぐってすぐに社の前に来た。絵馬を奉納しているところに寄る隙はなかったし、なにより、後ろに絵馬があることはいまこの瞬間まで知らなかった。
「マジか……」
とうとう認めなくてはならない。シロを追って豪徳寺に来てから繰り広げられているこの珍妙な出来事はすべて、おれの脳内劇場などではなく現実なのだということを。おれが飲み込んだということを表情から読んだのか、三毛猫は「やれやれ」と大きなあくびをした。
「ようやく本題に入れるね。作家志望──いや失礼。いちおう作家だったね。作家を名乗っているくせに想像力というものがないんだから、まったく骨が折れる。とにかくさシロがあたしを頼ってあんたを連れてここに来たのもなにかの縁だ。あんたに仕事を頼みたい」
「へ?」
猫が喋るということ自体受け入れるのに時間がかかったのに、さらに思いがけない言葉が三毛猫の口から出てきた。
「なんでおれが?」
とっさに反論すると、三毛猫は見透かしたように笑った──ような気がした。
「シロのメシをかっさらうようなマネをしかけたのはさ」
三毛猫のささやきに、あげかけた抗議の声は喉の奥に引っ込んでいく。甚平が絵馬の隣に咥えていたなにかをポトリと落とす。見間違えようがない。足元にあるのは、二枚のしわくちゃになった一万円札だった。
「あんた金に困っているからなんだろう? いいバイト、あるよ」
かれこれ三時間、おれは公園のベンチでただぼんやりと座っている。
マンションや戸建て住宅に囲まれた豪徳寺にほど近いこの公園には、昼下がりの暖かな陽気と子供たちの歓声に満ちている。
おれの半分ほどの背丈しかないのにどこにそんな元気が内蔵されているのだろうか、飽きもせずに子供たちはなんどもおれの前を右に左にそしてまた右にと駆けまわっている。
反対側にあるベンチにはママ友たちが集まり、ぺらぺらと甲高い声をあげながら子供の様子を横目で見守っている。そして、時折その視線はこちらにちらちと飛んでくる。
おれのようないい大人が平日の昼間からずっとベンチに座っているのだ、気にならない方がおかしい。だが、その視線は思いのほかに柔らかい。
「怪しい奴は来ませんな」
渋い声が隣から聞こえてきた。視線を下げると大きな黒猫の姿がある。昨日、というよりも数時間前の深夜、豪徳寺で出会った甚平と呼ばれていた猫が前足をきちんと揃えてベンチに座っている。その前足から胴にかけて赤いハーネスがついていた。
猫を散歩させている愛猫家の体のおかげで、おれは不審者として警察に通報されることなく公園の監視ができているのだ。
「ここでいいんだろうか」
ぐるりと公園を見回した。張り込みをしてからずっと、公園には不審な者の姿はどこにもない、というよりも、はたから見れば時折、こうして傍らの猫と世間話をするおれが間違いなく不審者なのだが。
「他に見当がつきませんで。間違いなく、発端はこの公園ですぜ。じっさいにあっしが二匹の猫を見つけて花子様のところに運んだんですから」
そう言って透き通った緑色の瞳を公園の隅々に向けている。
『猫に毒を食わせる不届きな奴がいる。あんたにはそいつを捕まえて欲しいんだ。体格に劣るあたしら猫よりも、猫じゃらしみたいにひょろっとしたあんたでも、いくぶん捕まえやすいだろうしさ』
花子──不機嫌でふてぶてしい顔をした三毛猫のことだ──は腹立たしそうに背中の毛を逆立てて言った。
ここのところ、豪徳寺周辺で猫を始めカラスに犬、鳩にハクビシンなどが不審な死を遂げる事件が立て続けに発生している、らしい。ニュースにもなったらしいがおれは知らなかった。そう言うと花子は呆れたように大あくびをした。
『あんたって人間の底が知れるね。自分の世界に籠るのが小説家だと思ってやいないかい? 逆だよ。人の心を動かしたいなら、人と接して世間を知らなきゃ。そんなんだから──』
再び始まりそうな説教を、『お嬢、シロが寒がってますんで、本題に』と押しとどめてくれたのが甚平だった。花子の話を要約すると以下の通りだ。
花子が縄張りとしている豪徳寺周辺の野良猫たちに下痢や嘔吐で虫の息になって発見され始めたのがここ数か月のこと。当初、梅雨の長雨や猛暑のせいで食べ物が腐り、食あたりになったのかもしれないと考えていた花子だが、いかんせん今年はその数が多すぎる。
どうしたのかと不審に思っていたところ、半月前に二匹の猫が死んだ。甚平が豪徳寺に運んできた二匹の猫はこの公園を定宿にしていたのだった。
今わの際の猫からようやく聞きだしたところ、誰かからここでもらったなにかを食べてしばらくして、急激に体調がおかしくなったということだった。
花子を始め近隣の猫たちで犯人探しを始めたのだが、ここしばらく、世田谷区では保護猫活動が盛んになっており、参加した猫たちの多くは捕獲され、病院に連れ込まれた末になにやらの手術を受けさせられて見せしめに耳の先端を切り取られる者、どこかの家に連れ込まれ、そのまま飼い猫として暮らし始める者が多発し、有効な証言を得ることはできなかった。
『人に飼われてそいつらが幸せになったのなら、それはそれでいいんだけどさ』
花子はそう言って嬉しそうに右手で顔を拭うが、肝心の犯人探しは一向に進まない。このままではさらに多くの猫が毒牙にかかって死んでしまうと思案しているところにシロがおれを連れてやってきたというわけだ。
『こっちは犯人探しができる、あんたは金が手に入る。こういうのをウィンウィンというんだろ?』
かくしておれは豪徳寺のボス猫、花子に雇われることとなったのだ。
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