第二章 猫と人と義理と人情

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 広々とした湯舟に体を沈めると、おれは両腕と両脚を思い切り伸ばした。  午後三時。豪徳寺駅にほど近いところにある銭湯は、客はまばらで念入りに体を洗っていたら、いつの間にか湯に浸かる客はおれひとりとなっていた。  奥安さんの家がそこそこいい感じに片づくのに一週間かかった。小西さんを始め、事情を知った近所の人たちが手伝ってくれなかったら、来年になっても終わっていなかったかもしれない。あとは奥安さんが自分のペースで掃除をしていけばいい。大量のゴミを積んだトラックを見送り、今日はご褒美に銭湯に行くことにしたのだ。  しかし気持ちがいい──。  おれはすくったお湯を腕にかける。全てがうまくいったわけではないが、まあまあいい状態に落ち着いたのではないかと思うのだ。経済的状況からすると、八匹の猫を飼い続けるわけにはいかないようで、奥安さんにひと際なついているモトコとブチ以外の六匹は、里親が見つかればそちらに任せることになる。里親探しは編集者の藤倉さんに頼んでいる。編集者という仕事柄、おれよりもずっと顔が広いのだし、敏腕な藤倉さんに頼んでおけば間違いがないはずだ。 「共倒れになるよりも、そっちのほうがよほどいい」  この間、深夜の豪徳寺に行ったら花子はそう言って安堵のため息をついた。行きがかり上仕方のないことだと思うのだが、モトコを傷つけてしまったことを非常に後悔してたようで、ことさら奥安家の動向を気にかけていたようだ。 「あんな健気な奴が死んじまったら、それこそ寝覚めが悪いだろう」  そう言って花子は念入りに顔を洗っていた。奥安さんが悪臭をさほど気にしておらず、モトコの生霊があれほどのにおいを放っていたのは、忠猫がご主人に安心して過ごして欲しい一心で体に取り込んでいたからだろうと花子は言った。 「病院の先生にもなにか礼をしなくちゃね」  モトコの命を救ってくれた柊木先生に非常に感謝をしていて、近々なにかをするらしい。猫が人になにをするのだろうかと非常に興味をそそられるところではある。  そろそろのぼせそうだ。  おれは湯舟から上がり、水を浴びて脱衣所に戻る。バスタオルで体を拭い、服を着ていると、スマートホンがピコンと鳴ってメールの着信を告げた。藤倉さんからだった。 「お、やりい」  思わず手を叩く。さっそく、五人の里親が見つかったらしい。 「よかった、ほんとうによかった……」  祝杯としてここで牛乳でも飲みたい気分だが、お金は節約するに限る。スマートホンをしまおうとしたのだけれど、メールには続きがあるようだ。 『里親も見つかったことですし、花澤さんの執筆環境も整ったことかと思います。力作をお待ちしています』  刺された釘に「うへぇ」とため息が漏れるも、次回作を待ってくれている人がいるとうのはありがたいものだ。じゃあ、家に帰ってもビールを飲むのはやめて、プロットを考えるかと銭湯の暖簾をくぐると甚平がいた。 「昼間っから風呂に入っていたということは、ずいぶんとお手すきのようでさあね。そこでどうでしょう、花澤さんにうてつけの仕事があるんでさぁ」 「どうでしょうって言っても、花子の依頼なんだから断るなんてできないんだろ?」  おれの返事にぎゅうと目をつぶっただけで、甚平は歩き出す。 「まったくよぉ」  ぼやく声はイワシ雲の浮かぶ空に消えていく。おれは小走りにふらふらと揺れる黒いシッポを追った。
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