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第三章 人の心猫知らず、猫の心人知らず
ふんふんと鼓膜を揺らす聞きなれない音に目が覚めた。
耳朶を攻める生暖かなくすぐったさを手で払うと、指先に生乾きの毛布に手を突っ込んだような感触がある。なんだこれと瞼を開けると、見えるのは暗い夜空に瞬くいくつもの星の光だった。
「はあ?」
口から出た言葉と共に、白い息が空に昇っていく。体を起こすと目の前にあるのは闇に沈む格子の入った開き戸と両側に吊るされた赤い提灯、そして古ぼけた石の階段だった。状況はよくわからないが、とりあえず寒い。眠る時に被っていた布団も毛布もなにもない。おれはずるずると鼻をすする。
おれがいるのは豪徳寺の境内にある招福殿の真ん前だ。もうなんども来ているのですっかり馴染みになった景色ではあるが、いったいなぜここに呼び出されたのか、その理由がさっぱりわからない。ここ数日、豪徳寺のボス、妖怪猫又の花子から仕事を依頼されていないので、なにかミスをしたせいで呼びつけられるはずもないからだ。
「うおぉ!」
横からどん、と右肩になにかがぶつかってきた。右を向くと、そこには鼻の長い焦げ茶色の犬がおれを見ていた。お袋の友人宅の家で柴犬を飼っていたのだけど、そいつに顔が似ている。前足を揃えて座っていて鼻先は地べたに座っているおれの肩口の高さにあるので大型犬に分類されるのだろうか。図体が大きい犬に突然飛びかかれたのに怖さを感じなかったのは、はぁはぁと荒い息を吐いてるその半開きの口が笑っているように見えたからなのだ。
「よぉ」
とりあえずなにかを言わなきゃと挨拶すると、犬は座り直して首を左に傾けてふん、と鼻から息を漏らす。友好的なのは間違いないだろう。首輪をしている。飼い犬なので行儀がいいのかもしれない。
「花子?」
ずっと座っていると尻が冷えてきた。立ち上がったおれはぐるりと辺りを見回して、ブサイクな茶色の猫を探す。この状況を説明して欲しいのだけどどこにもいない。人を呼び出しておいてこの仕打ちはいったいどういうことなのか。そういえば猫仕事の相棒である甚平も、こうして呼び出された時にはいつも境内にひしめき合っている猫たちの姿も見えない。
「花子様?」
呼び方が気に入らないのかと敬称をつけてみる。返事はない。
「花子さん? 花子ちゃぁーん?」
「だから気安く呼ぶなって言ってるだろ」
頭上から不機嫌な中年女の声が降ってきた。花子の声に、足元に控える犬がシッポをパタパタと振ってわんと鳴いた。
「まったく、あんたもそいつもうるさいことといったら」
でっぷりとした図体のくせにそこは流石は猫、空気の揺れる気配がしたかと思ったら、ひたと軽い足音と共に背後の香炉の屋根に花子が現れた。続いて隣の灯篭の上に、黒い影が着地した。甚平だ。
「もう、鬱陶しい。とっととなんとかしておくれよ」
立ち上がった犬は香炉の支柱に前足をかけ、長い鼻先を屋根にいる花子に向ける。なにがそんなに嬉しいのか、犬はしっぽをぶんぶん振っている。犬猿の仲ならぬ犬猫の仲なのだろう、しゃーっと威嚇して花子は右手の高速パンチを繰り出すが、さすがの猫又も犬は怖いのだろうか、爪は黒い鼻の遠くの宙を掻く。
「……こいつを追い払えばいいのか?」
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