第三章 人の心猫知らず、猫の心人知らず

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 ペットを飼ったのはシロが初めてで、最初はみゅいみゅいと鳴く小さな生き物をどう扱えばいいのかおっかなびっくりだった。それなのにシロの何十倍もの大きさの、しかも鋭利な牙を持つ犬をどうにかしろというのはいくらなんでも酷だと思うのだ。恐るおそる首輪に手を伸ばすと、香炉の柱に手をかけていた犬は大人しく地べたに座る。 「違うって。あたしが本気を出せば、こいつなんて瞬殺だってことはあんただって知っているだろ」  強がるように香炉の屋根の花子は前足で顔を洗いながら言う。 「こいつの悩みを解決してやっておくれよ。相棒を飼い主の虐待から救って欲しいんだとさ」 「虐待……」  期待に満ちたきらきらとした瞳で、犬はおれを見上げていた。人懐っこいその顔は、人の悪意にさらされたことなどないかのようにも見える。こんな風に育てた飼い主が相棒を虐待するなど想像もできなかった。 「ところで相棒って?」 「猫なんだと。まったく、わんわんとうるさい犬っころと一緒にさせるなんて、人間ってのはまったく酔狂なことをするもんだ。とにかく頼んだから」  花子の言葉を理解しているのか、足元の犬は闇夜に光る期待に満ちた瞳でおれを見上げ、わんと威勢よく鳴いた。  豪徳寺は眠らない街と呼ばれる新宿や渋谷にほど近い場所にあるとはいえ、深夜になるとしんとした静けさが街を覆う。小路にはぺたぺたかちかちという足音だけが響く。最初のはおれの素足がアスファルトを踏みしめる音で、かちかちは豪徳寺で会った犬の爪がたてる音だ。  仕事は明日──実際は日付が変わっているので日が昇って人の家を訪問しても大丈夫な時間になってからなのだけど、犬が一匹で外を歩いていたら捕獲されて保健所に収容されるかもしれないし、だいたいあんた、この犬がどこに住んでいるかなんて知らないだろ、という花子の一声におれはこいつ──ぼんちゃんを家まで送っていくことになったのだ。  ぶんぶんとシッポを振りながら歩くぼんちゃんは、時折、『楽しいね』と言わんばかりの笑顔でおれを見上げる。ずいぶんとしつけのいい犬で、リードがなくてもおれの一歩前の位置をずっと保って歩く。  しかしまあ、東京の道というものはずいぶんと整備されているものだと、裸足で歩いてつくづく思う。雪の多い実家の道路は市の財政状況なのか除雪車が除雪作業をする際に雪と一緒にアスファルトを削ってしまうためなのか凹凸が多い。だが、この道はたまに小さな砂利を踏むことはあっても真っ平なように感じる。豪徳寺を出発して二十分、おれは東京の道に感謝する。  ぼんちゃんが角を左に進む。両側に戸建て住宅が並ぶ静かな道だ。どの家の窓も暗い。だが、遠い先にらんらんと照明を灯した家が一軒だけあった。暖色の光を目にした途端に、ぼんちゃんの足取りが早くなる。 「ぼんちゃん?」  おれは小走りにぼんちゃんの大きく揺れるシッポの後を追う。小走りはすぐに全力疾走に変わる。おれはがむしゃらに手足を動かす。  ぼんちゃんは明かりの灯る家の前で足を止めた。庭のある家だった。跳ね上げ式の扉に守られた駐車場には外車のSUVが停まっている。大きな窓からの光が庭の秋色に変わりつつある芝生を照らしていた。  分厚い門扉に守られた外玄関の前に座ったぼんちゃんは、早く開けてといわんばかりの無邪気な笑顔をおれに向ける。 「え、おれが……?」
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