第三章 人の心猫知らず、猫の心人知らず

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 いかにも堅牢そうな石材の柱に設置されたインターホンを前に、おれは呼び出しボタンを押すのを躊躇してしまう。こんな時間に訪れる──しかも着たきりの、袖の糸がほつれている灰色のスエット姿のおれが歓迎されるわけがないし、それどころか不審者として警察に通報されかねない。おまけにおれは裸足なのだ。急かすようにぼんちゃんが──それでも遠慮がちにわんと鳴いた。  すると──。 「ヴォルフガング?」  窓がガラリと音をたてて開き、中から遠慮がちな女の子の声が聞こえてきた。逆光で黒い人影の背丈はまだ小さい。立ち上がったぼんちゃんはちぎれんばかりの勢いでシッポを振る。 なるほど、ぼんちゃんの本名はヴォルフガングという、舌を噛みそうな名前なのか。名づけたのはいいけれど、きっと飼い主たちも言いにくいのでぼんちゃんと呼んでいるのだろう。だから、花子に名を聞かれてぼんちゃんだと答えたのだ。  わんと鳴く声に影は転がるように庭に降りる。慌ててサンダルかなにかをつっかける音がしたかと思うと、門扉の向こうに女の子の姿が現れる。  長い黒い髪は門扉の白い明かりを受けて艶やかな冠を戴いている。ピンク色のパジャマには猫と犬がプリントされていて、小さな手に持っているのはぼんちゃんと同じ焦げ茶色の犬のぬいぐるみだ。女の子の目は真っ赤で頬に涙の跡がくっきりと浮かんでいる。突然いなくなったぼんちゃんを心配して、こんな時間まで起きて待っていたのだろう。 「……だれですか?」  おずおずと誰何されてどう答えようかと考えていると玄関のドアが開いた。 「杏ちゃん、どうしたの?」  紺色のパジャマに白いカーディガンを羽織った女性が出てきた。ヴォルフガ──ぼんちゃんは門扉に前脚をかけてぴぃぴぃと甘えるように鼻を鳴らす。 「ぼんちゃん──」  安心半分、呆れ半分に言う女性はぼんちゃんの隣にいるおれの存在に気づいて息を飲むが、不審者と愛娘を隔てているのがたった一枚の門扉だけだという事実に慌てて飛び出してきた。 「あなたは……?」  杏ちゃんを守るように前に立ちはだかると、刺すような視線でおれを見る。 「お母さん、この人だれ?」 「えっと──」  どう説明しようかと考えていると、ぱたぱたとつっかけたサンダルの音が後ろから聞こえてきた。振り返ったぼんちゃんは、わんとひと鳴きして音に向かって走る。 「ぼんちゃん、お前、どこに行ってたんだよ。心配したぞ……って、あの失礼ですが」  さっきから誰何されてばかりだ。振り返るとジャージにロングコートを羽織った男性が立っていた。きっと杏ちゃんのお父さんだ。ぼんちゃんを探しに深夜の町を歩き回っていたのだろう、右手には懐中電灯を持っていた。 「えっと、たまたま歩いていたらぼんちゃんを見かけて……。こんな夜中にぼんちゃんが一人で歩いていたらなにかと物騒だから送ろうと思って」 「ああ……、そうなんですか」  父上氏の言葉は尻すぼみになり、推し量るような視線でおれをなぞるが、靴も履いていない足に目がとまるにあたり、太い眉の端が見る間にさがる。どう評価していいのかわからないようだ。 「どうも……、わざわざありがとうございました」  いい人なのだろう。秋も深まる寒空の下、素足にスエット姿でふらふらと歩いているおれなど不審者以外の何者でもないが、それでも無理に笑顔を作って腰を折った。 「えっと──」
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