第一章 猫のしっぽを追いかけて その1

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第一章 猫のしっぽを追いかけて その1

 ぷすぷすと顔にかかる鼻息で目が覚めた。  おれの右肩に体を預けるように、小さな体を丸めて寝ている白い毛むくじゃらが子猫のシロだ。大雨の日にこのアパートの階段の陰でみゃうみゃうと鳴いていたので、見るに見かねて連れてきて二か月になる。 かわいい女の子で、動物病院の先生によると生後三か月になるらしい。 「起きるかぁ」  よいしょと背伸びをすると、シロの体はずるずると肩から落ちる。不満そうに薄目でおれを見ると、背伸びをして小さな口を思いきり開けてあくびをする。 一緒に起きるかと思いきや、小さな手で両目を覆ってそのままクッションの上で寝続ける。どうやらまだ眠いみたいだ。さすがは『寝る子』が語源となっているらしき猫、本当によく寝る。  体を起こす。アパートの窓から差し込む茜色の夕日が、床に長い影を作っていた。座卓のノートパソコンのキーを叩いてスリープモードを解除すると、画面に広がるのは一面の白。 ワードの画面はここのとこずっと、真っ白いままだ。  ため息をついて顔をあげると、壁際に置いてある本棚が目に入る。背表紙に『ばかしあい』と書いてある黄色い単行本が五冊並んでいた。ページの上の天という部分に埃が溜まっている。もう何カ月もこの本は触っていない。 『ばかしあい』はおれが書いた小説だ。去年の春に出版社の文学賞を受賞して、八月に出版された。化け猫と妖狐が丁々発止の化け合戦を繰り広げる、『荒唐無稽で面白い』と書評家の重鎮に評価してもらえた作品で、出版してからもう一年と二カ月になる。 「焦らなくてもいいんで、面白い作品、待ってます」  担当編集者の藤倉さんは打ち合わせをするたびにそう言ってくれているのだけど、かれこれ一年以上、プロットという小説の企画書のようなものを送ってはボツを食らっているのだ、面白いってなんだという堂々巡りの問いが頭から離れなくなっている。  才能ないのかも……。  ふと浮かんだ忌まわしい言葉を頭をぶるぶると振って追い出す。 もともと肌の会わない会社だった。朝礼では五つの社訓を叫ばされ、早出残業当たり前。休みの日は研修やら親睦を深めるという名目のバーベキューや飲み会で呼びつけられる。  それで目的の親睦とやらが深まればいいのだが、共通の顧客名簿に載っている番号にひたすら電話をかけて面談をとりつけ、金やプラチナなどの貴金属を売りつけるのだから、客は早いもの勝ちの奪い合い。営業社員同士で仲がよくなるわけがない。  あんな環境、もともと気の弱さに定評のあるおれに馴染めというのが無理な話だ。 半ば逃げるために書き始めた小説で賞を獲り、ウン百万の賞金とウン十万の処女作の印税がはいってきたのを幸いに、おれは作家で食っていくからと、『そんなに人生甘くねえぞ』と引き留めているのだか脅しているのだがわからないことを言う上司の机に退職願を叩き……、もとい、そっと置いて会社を出たのだった。 ここ最近、甘くないと吐き捨てた上司の言葉がしきりと脳裏をよぎるようになった。   会社を辞めたの、早まった……?  いやいやいやいや、と髪を掻きむしる。どうやら思考は負のループに入り込んでしまったようだ。 「買い物行くか」  シロのご飯のネコ缶がもうない。小さいくせにこいつは大食漢で、朝は八時、昼は一時、そして夜は六時を過ぎるとご飯をよこせとにゃあにゃあ大声で鳴き、おれの足をひっかき、背中によじ登ってくる。 大騒ぎされるたびにバレやしないかとひやひやする。このアパートはペット不可なのだ。  薄すぎて存在感のない財布をズボンのポケットにつっこんで靴を履く。 「シロ、行ってくるよ」  声をかけるが、クッションの上で丸まっているシロは、耳をちょいと動かすだけで起きる気配もない。飼い主が自分のメシを買いに行くというのに薄情な奴だ。  気を引こうともう一度シロと呼ぼうとしたけれど、息をするたびに膨らんでは縮む小さな腹の動きはどこか頼もしく、こいつは大きくなるために一生懸命に寝ているのだと思い直し、行ってくるねとそっと呟き部屋を出た。  ぎしぎしときしむ赤さびの浮かぶ階段を降りると、一階のちょうどおれの下の部屋に住んでいるばあさんに出くわした。確か木下というはずだ。  薄い白髪頭に薄い眉と細い目は、全体的に印象が薄い。襟のよれた薄いピンクのシャツに色の抜けた青い毛玉の浮いたカーディガンを羽織っている。ベージュのパンツは膝が抜けそうだ。このアパート同様に、年期の入った洋服だ。 「こんにちは」  頭を下げるが、木下のばあさんは口のなかで挨拶らしきものをもごもご呟いただけで、逃げるように部屋に入ってしまった。別に好かれようとは思わないが、ドアを閉めた途端に鍵をかけられたのには少し傷ついた。  アパートの最寄り駅は豪徳寺で、駅の近くにあるスーパーは品ぞろえはいいのだが、残念ながら無職のおれにはちと高い。この後、別に予定があるわけではないし、締め切りといった売れっ子作家につきものらしいうらやましいイベントなどなにもない。  つっかけたスニーカーのかかとをぱたぱた鳴らしながら、おれは隣駅の商店街に続く道を歩く。のんびり進むおれを、子供を連れたお母さん連中やスマホを耳に当ててはきはきと喋るスーツ姿が追い越していく。  地域最安値がウリのスーパーに着き、半額のシールが貼ってあるしおれ始めたキャベツや玉ねぎ、もやしにパスタなどを買い物かごに入れていく。  ペットコーナーに立つ。猫用トイレの砂に猫じゃらし、犬用のガムやお皿、目当てのペットフードが並んでいるが、そのどれにも半額どころかいくらの値引きのシールは貼っていなかった。 一番安い子猫用の缶詰を三パックかごに入れ、長くなり始めたレジの列に並ぶ。  レジで買い物客をさばくパートのマダムたちの神業に、あっという間におれの順番になった。 「……あれ?」  思わず声が漏れた。レジスターに表示された金額を払おうと財布を出すが、札入れに札はなく、小銭入れは五百円玉が一枚しか入っていなかった。 その代わり、ここ数週間に買い物をした時にもらったレシートが数枚ある。これを札と間違えるなんて、おれはどうかしている。 そういえばおととい、コンビニで公共料金を払ってほとんど空になっていたのだった。世知辛い世の中、息をするだけでも金は出ていくものなのだ。  焦りと恥ずかしさで顔が熱くなっていく。おたおたしていると、後ろから咳払いが聞こえてきた。半額シールつきの弁当を手にした爺さんが、迷惑そうに顔をしかめている。 「すみません……、これだけお願いします」  かごから猫缶を取り出してレジに置く。おれのような客は大勢いるのか、愛想笑いを崩すことなくマダムは残りの商品が入ったかごをレジの下に回収すると、猫缶四個パックのバーコードを機械で読み取った。言われるままに金を払うと、財布には百円玉が一枚と十円玉が二枚しか残らない。  時刻はそろそろ六時になろうとしている。部屋では腹を空かせたシロがおれを探してみゅいみゅい鳴いている頃だろう。 口座のある銀行のATMに行くには時間がかかるし、コンビニで金をおろして手数料を払うのも業腹だし、そんなもったいないマネなどできるわけがない。賞金と印税の残高は日々減っていくし、プロットは通らないし原稿依頼などないし、無職だし。 たしか冷蔵庫にキャベツとほうれん草、そして特売の豚のこま切れ肉があったはずだ。野菜炒めを作ってご飯を炊けば立派な夕食だ。算段がついたことでいくらか元気になった。おれは早足でシロの待つアパートに向かった。 だが──。 弱り目に祟り目とはこのことだ。冷蔵庫の前でおれは呆然と立ちすくむ。あるはずの肉がなく、ほうれん草は腐っていて青黒い水が染み出している。ご丁寧に袋のどこかに穴が開いているらしく、腐った水が下にあった四分の一カットのキャベツのヒダのひとつひとつにまで侵入しており、サランラップを開けるとぷんと匂う。 性格同様に繊細にできているおれの胃は、どんなにしっかり洗っても、間違いなくこのキャベツを受け入れない。さらにさらに、冷蔵庫の隣にある棚の米袋は限りなく軽い。ひっくり返すとぱらぱらと米粒がシンクに置いたボールの底を、からんという音はあっという間に終わってしまった。 「いたっ!」  足首に走る鋭い痛みに我に返る。目を見開いた必死の形相で、シロがおれを見上げてみゃうみゃうと鳴いている。まるでこの世の終わりが来たような鳴き声だ。 「はいはい、わかったわかった」  落胆はいったん無視することにして、おれは猫缶のタブを引き、アルミの蓋を開けた。待ちかねたようにシロはおれの足の間を器用にくぐり、右に左に小さな体をこすりつける。  中身を半分シロのご飯皿によそって床に置くと、皿をひっくり返さんばかりの勢いでシロは顔をつっこんで食べ始める。旺盛な食欲は見ているだけで微笑ましい。ぺちゃぺちゃという咀嚼する音を聞きながら、おれは残りの半分を保存容器によそう。これはシロの明日の朝ごはん──。  シーチキン?  ふわりと漂う猫缶のにおいに、おれは蓋をしようとしていた手を止める。この二カ月、シロのためにいくつもの猫缶の蓋を開けてきたが、こんなにおいがしているなんて気にもしなかった。  コンビニのシーチキンマヨネーズのおにぎりに限りなくにおいが似ている。缶を回して成分表に目を通す。なるほど、主成分にはツナをある。ツナとはマグロのことで、マグロはシーチキンと呼ばれることもあり、シーチキンは立派におにぎりの具として主役を張っている。  鼻先を猫缶に近づける。においはいくぶんきつく感じるが、まごうことなくシーチキンのものだ。自然とおれの目は冷蔵庫に向かう。なかにはマヨネーズが入っている。さっき見たのでこれは間違いない。  これにマヨネーズをかけたら普通にツナマヨなんじゃねえ?  おれの手はじりじりと冷蔵庫に伸びる。だが、頭のなかでは理性と食欲がせめぎ合っている。腹がぐうと鳴る。生きている限り腹は減るのだ。たとえこの一年、稼ぎというものがないのだとしても。  視線を感じた。ふと見ると、前足をきちんと揃えてシロがおれを見上げていた。茶色と青のオッドアイをまん丸く見開いている。 「そんなぁ」  小さな口から驚きの言葉が飛び出してきた。聞き間違いかと思ったが、シロはもう一度口を開いて「そんなぁ」と言う。 「え? ……え?」  猫は喋るが人間のおれの口から言葉が出てこない。 猫缶片手に呆然としていると、やおら立ち上がったシロがとぼとぼと部屋の奥に歩いていく。その背中は猫背の語源そのままがっくりとしたように丸まっていた。 お気に入りの段ボールに入ったシロは、なんど呼びかけても顔をあげず、そのまま丸くなって寝てしまった。夜になってもいつもみたくおれの布団に入ってくる様子もない。  深夜、ふと目を覚ますと窓が開いていた。ちょうど、子猫一匹が通れるくらいの幅だった。シロが寝ているはずの段ボールの中に、白い毛むくじゃらの姿はない。 「シロ?」  いくら耳をそばだてみても、狭い部屋のどこにもシロの気配はない。 間違いない。シロが家出した──。
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