大樹の子守歌

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 山深くにあるその大樹が歌を歌うようになったのは、ある老婆がその木の洞でしきりに口ずさんでいたからだった。  大樹は人をひとり抱え込めるほどの洞を持っていた。そこに、老婆が置き去りにされたのだ。  枯れ木ばかりの初冬の山奥、自分の一人息子に老婆は捨てられたのだった。  はじめ、「気にせず帰れ、振り向くな」と老婆は息子に言っていた。悲しさなのか罪悪感なのか、沈んだ表情でただもたもたとその場をうろつく息子を叱咤さえしていた。  息子がようやくその場を離れ、振り返るのもやめて家に帰っていく姿に満足げにうなずいてさえいた。しかし、いざ息子の姿が見えなくなり声も届かぬほどの時間が経った頃、老婆はすすり泣きはじめた。 「行くな。行くなぁ……」  不自由な足を引きずって、洞の外に這い出して老婆は泣いた。 「ひとりにするなぁ……っ」  頬をしとどに濡らす涙は地面を覆う枯れ葉の上に落ちる。蹲って泣き声を上げる老婆の手によって、湿った枯れ葉はくしゃくしゃと握りつぶされていた。  長いこと泣き続け、体力のない老婆は蹲ったまま気を失うように眠りについた。  その体を、大樹は洞に入れてやった。憐れみ、木の実も落としてやる。  持たされた食料はごくわずか。いずれ老婆は死ぬだろう。死なせるために、捨てられたのだ。  貧困の中にある若者たちが親を養いきれずに山に捨てる。そういった時代である。  大樹の洞で数日を過ごし、老婆は寒さと飢えで死んでいった。  老婆は毎夜、歌を歌っていた。人の子守歌だ。  己を捨てた息子が罪の意識で苦しんではいないか、そのせいで眠れぬ夜を過ごしているのではないかと老婆はずっと気にしていた。  自分の腹さえ満足に満たせぬというのに子どもの飯の心配さえもする。その老婆の情の深さは大樹には恐ろしくさえあった。  自分を捨てた子どものことなど恨み憎しむのが当然だろうに、老婆は湧いてこようとするその負の心を殺して、ただ思いやりだけを大事に抱えていた。子どもを想うことだけが命の最期に持っていたい願いだというように、必死に。 「……お前は、良い子」  洞の中には根が盛り上がっているところがあった。意識が虚ろになった老婆はその盛り上がりをぽんぽん、とあやすように叩いて弱々しく歌った。赤子の頃の息子の幻を見ていたのだろう。  ねんねんころり、と歌う声がしだいに弱くなってゆき、やがて皺だらけの手がぱたりと落ちる。  それが老婆の最期だった。  大樹は老婆の代わりに歌い始めた。あれほど老婆が息子を想って口ずさんでいた歌だ。代理であってもたとえ聞こえないとしても、あの息子の何かの支えになるやもしれぬ。大樹は老婆の命が尽きた後も息子のために歌い続けた。  大樹の歌は洞で反響し増幅し、実際には息子のいる集落までその声は聴こえてきていた。長い齢を得た大樹の力も加わっていたのだろう。  集落の他の者たちには風の音にしか聞こえぬその歌は、息子の耳にはしっかりと届いていた。  人は、小心で臆病で、卑怯なものだ。  罪を抱いているものならなおのこと。  母の歌を耳にした息子が得たのは、気力でもなく安らぎでもなく、恐怖であった。  ――山から絶えず、歌が聴こえる。  母親を捨てたのはいつのことだ。持たせた食料もほんのわずか、冷え込む山の中、冬を越せるはずもない。……もう生きているはずはないというのにどうして歌が聴こえるのか。四六時中、まるで耳に直接訴えかけてくるように。  優しい思い出の詰まっているはずの子守歌は、息子の耳には怨嗟の声に変換されて届いていた。  責めている。恨んでいる。  どうして置いていったのだ、どうして母を捨てたのだと、そう言っている。 「仕方がなかったじゃないかぁ」  そう呟くと、息子は鍬を手にしてふらふらと山に入っていった。  大樹にとって、人はあたたかなものだった。負の感情を殺して慈しみをかき集めて大切なものへ注ぎ、懸命に光を見つめようとする健気なものだと認識していた。  大樹は老婆を落ち葉にくるんで、その身を朽ちさせた。肉がなくなり今は洞の中に骨がある。大樹はそれを、ずっと抱えているつもりだった。  花を咲かせ雨水を貯めて、紅葉を運んで雪を積もらせて。そうして老婆の骨と月日を過ごしていくつもりだった。  けれどその日、それは叶わぬこととなった。  老婆の息子が山を登って大樹のもとにやってきたのだ。その瞳は怯えを滲ませながらも爛々とし、頬はこけて血の気が無い。そしてすっかりと細くなったその腕に、鍬を持っていた。 「何で……」  がさがさとした、昏い呟きだった。大樹の洞の中に転がる骨を見据え、鍬を振り上げる。 「仕方のないことだと諦めたろう! 捨てろと言っただろう! なのにどうして恨むんだ。どうして俺を責めるんだ!」  震える手に握られた鍬が、老婆の骨に向かって振り下ろされた。過たず頭蓋骨を打ち砕き、破片が飛んだ。  ――何てことを。  何てことを、何てことを、と大樹は嘆いた。  あれほど息子を想っていた老婆を、その骨を、どうして想われていた本人が砕くのか。  息子はくぐもった呻き声をあげた。 「食うもんがないんだ。金がないんだ。年寄りを養えるわけがない。俺が死んじまう。だから言ったじゃないか。捨てても良いって言ってくれたじゃないか」  遠く遠い、深く深い山の奥に親を捨てて。  それで気が狂わぬほうがおかしい。愛してくれた親を捨てて平気でいられる者など、どこにもいない。  息子はとうの昔に、悲しみと罪の意識でおかしくなってしまっていたのだ。息子は歯をがたがたと震わせる。 「あ、足をぉ」  捨てる前にあらかじめ足を傷めつけ。 「歩けなくしてから」  ゆっくり時間をかけて、老いと貧しさとで軽くなった母親をその背に負って山道を歩き続けた。  ただ二人静かに歩く時間が、嘘のように穏やかで幸せだったと――息子は泣きながら骨を砕いてゆく。  洞の中に満ちる感情や記憶が、そのまま大樹に流れ込んだ。  ――何てこと、と大樹はまた、嘆いた。  自分の親を見殺しにしてまで生活を続けようとしていた息子の体はしかし、栄養が行き届いているとは言い難い。精神的な負荷がなくとも、そもそも食うに困る暮らしなのは変わらないのだ。  大事なものを捨ててでも、正気を手放してでも必死で手に入れようとした生活だというのに、それでも貧しさは変わらない。  幾度目か、鍬を振り上げた息子の体が唐突にその動きを止めた。ふつりと糸が切れたようにその場に膝をついた。 「母ちゃん」  ばらばらに砕けた骨をかき集め、息子はそれを抱き締めて泣いた。 「嘘だよぉ。恨んでくれ、憎んでくれよぉ。俺が悪かったから、帰って来てくれ。い、生き返ってくれよぉ……!」  老婆のいのちは、もうここにはない。  それでもその残滓なら、大樹は受け取っている。洞の中で泣きじゃくる息子に向けて、大樹は子守歌を歌った。老婆の声が幹のうちに染み込んでいるから、同じ声で響かせられる。 「この、歌」  力尽きて倒れ伏す息子の耳に、ようやく正しく歌が届いた。母が子を想う歌、子が母のそばで安らぐための歌だ。 「母ちゃん……」  大樹は洞に老婆の骨と息子を抱えたまま、その入り口を塞いだ。力尽きて死ぬのであれば、辛いばかりの外の世界に帰ることなどない。思い煩いのもとすべてを、もうここにはわずかばかりも入れはしない。  大樹は洞の中に二人を抱えて、慈しみだけを注ぐ。  いつまでも響く歌声は木々を渡り山を満たし、けれど他の誰の耳にも届くことなく、風音に紛れて溶け消えていった。
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